![河村隆一の昔と今。若い頃の美声とイケメンぶりは伝説級[売り上げ記録樹立]](https://rock-fes.com/wp-content/uploads/2025/02/09d9ec37f7483c9ee11a9e6b0d2cf2fb-e1738709959233.jpg)
日本の男性ソロアーティストの売り上げ記録を保持する河村隆一さん。
ヴィジュアル系ミュージシャンのレジェンドとして有名ですが、同ジャンルのミュージシャンがよく言われる「昔は〜」「若い頃は〜」を強く言われる1人でもであります。
今日は今の河村隆一さんと昔がどれだけ違うのか?ということ。
そして、河村隆一さんの何がすごくて偉大なのかということについて書いてみたいと思います。
若い子も驚く河村隆一の昔のイケメンぶり。顔の素材はV系No. 1だった
河村隆一さんは神奈川県大和市に生まれ、家族構成は両親と本人の3人家族です(ひとりっ子)。
幼児の頃から中性的な雰囲気が出来上がっており、とても可愛い子供でした。
両親が離婚し母子家庭となり、母親が働いていたことから頻繁に祖父母の家に行き、祖母から料理を習い、小学生低学年の頃には自分で自分のご飯を作っていました。
水が怖くてカナヅチだったり、昆虫採集しに行って途中で不良からカツアゲにあったり、少年時代は比較的に大人しくて良い子だったそうです。
幼少期から西城秀樹さんに憧れ、当時から後の河村さんのような力強くオーディエンスをリードする男前なボーカリストが好みだったようです。
小学校高学年になる頃には早くもロックに目覚めバンドを結成し、中学生や高校生のイベントに混じって出演するなどませた一面も持ち合わせていました。
当時から歌唱力が優れており、合唱コンクールの代表になった経験もありました。
耳がとがっていたことから当時のあだ名は「サル」で、誕生日に女子からモンチッチの人形をプレゼントされるなど、当時から女子からはモテていたようです。
名前 | 河村隆一 |
愛称 | RYUちゃん |
生年月日 | 1970年5月20日 |
出身地 | 神奈川県大和市 |
身長 | 171センチ |
血液型 | O型 |
出身小学校 | 大和市立西鶴間小学校 |
出身中学校 | 大和市立南林間中学校 |
出身高校 | 日本工業大学附属東京工業高校(中退) |
河村隆一はテニス部のキャプテンでユーモアある学生
小学生の頃からのバンド活動が生きたのか、人前が得意となり、中学生になる頃には人を笑わせる陽キャラでした。
テニス部では人一倍努力をして同級生の中でいち早くレギュラーになっており、中学2年生の頃にはキャプテンも務めていました。
充実したように見える中学生活ですが、卒業文集には「コノヤロー、よくも三年間こきつかいやがったな、オレたちは人間だ」などと書いたそうです。
高校は私立の男子校(当時)の日本工業大学附属東京工業高校に進学し、バンドを結成して活動に励みました。
高校2年生の時に親に「学校を辞めて音楽をやる」と宣言して、高校を中退。
17歳で上京するもアパートを借りることができず、友人の家を転々とし、アルバイトとバンド活動を繰り返す日々でした。
この10代の下積みの時期にたくさんのバイトを経験し、それが後の音楽活動に良い影響を与えました。
そんな頃、町田のライブハウスで早くも後のLUNA SEAの前身”LUNACY”と出会い、バンド解散とLUNA SEAのボーカル脱退に伴い1989年に加入しました。
LUNA SEAの初期の河村隆一は歴代V系No.1イケメン
1989年に19歳にしてLUNA SEAに加入した河村隆一さん。
LUNA SEAは結成して間もなく、メンバーのほとんどが未成年だったにも関わらず他インディーズバンドを圧倒。
メンバー全員のビジュアルが良かっただけでなく、個々の技術やステージ映えも素晴らしく、活動開始早々にワンマンライブ、カセット完売、雑誌掲載と、とんとん拍子で人気インディーズバンドの仲間入りを果たしました。
そして、1992年には22歳にして早くもメジャーデビュー。
デビュー元は、XのYOSHIKIのエクスタシーレコードからでした。
デビュー時の河村隆一さんの衣装やヘアメイクは元祖・ヴィジュアル系のど真ん中。
その一方で、歌声は当時のV系に多く見られた癖が強いタイプとは異なり、ミュージカルのイケメン役のような正統派ボイス。
ステージングも激しく、デビュー当時の河村隆一さんこそがV系ボーカルの頂点だと仰るファンもいます。
その後、ヘアメイクの激しさは減りますが、20代前半の河村隆一さんの瑞々しい美しさが際立ちます。
まるでCG加工のような理想的な美青年ぶりにヴィジュアル系ファンは釘付けになりました。
1994年の24歳の頃にはオールバッグでハードな表情も見せるようになりました。
まるで宝塚の男役のような女性の好みを全て詰め込んだようなルックスとなりました。
20代半ばから30代の河村隆一は現代でもNo.1級のイケメン
その後の20代半ばから後半にかけては派手な装飾を削ぎ落とし、ナチュラルでシックなルックスに変貌。
90年代に活躍したV系のイケメンボーカルは多く存在しますが、hyde=小さい、櫻井敦司=濃すぎ、Gackt=頑張りすぎ、清春=怖いなど、それぞれに一癖がありました。
その一方で、河村隆一さんはアイドルや俳優と言われても違和感がないほどに正統派のイケメンであり、バンギャだけでなく幅広い女性からの支持を集めました。
90年代の河村隆一さんのルックスはいつの時代でも通用するとの声もあるほどです。
また、SUGIZO、J、INORANという別タイプの男前たちと共に、ステージ中央のRYUICHIさんがフロントマンとして躍動してる空間そのものに言葉にできない尊さがありました。
河村隆一さんのイケメン度が凄まじかったのは確かですが、LUNA SEAのメンバーの存在も相まって、それをさらに高いところにぶち上げているような感じでした。
河村隆一の全盛期。27歳でソロ。「Love」は歴代最も売れた男性ソロアルバム
河村隆一さんの外見と人気の全盛期は1997年(27歳)のソロデビュー直後だと言われています。
この頃はドラマ「ふたり」で俳優デビューするなど、ヴィジュアルを生かした活動が増えていきます。
LUNA SEAではRYUICHIという名前で活動していましたが、ソロでは本名の”河村隆一”。
人気ヴィジュアル系バンドのボーカルがソロデビューするのに英字を使わず、飾らずに本名を使用するという点が斬新で、彼のミュージシャンとしての自信が垣間見れました。
1997年に発売された4枚のシングルは全てヒットを記録し、2枚目シングル「Glass」に至ってはミリオンセラーを達成。
そして、アルバム『Love』は男性ソロアーティストのアルバム売上歴代1位を記録し、この記録はその後も破られず、ディスクの時代が終わった今、今後も破られることのない不動の記録だと言われています。
同年はソロアーティストとしての紅白歌合戦に出場するなど、国民的なミュージシャンとして茶の間に認知されました。
1998年の27歳になった頃には楽曲提供なども初め、同年(1998年)には長者番付の歌手部門で1位を獲得。
ソロとしての河村隆一さんの音楽はLUNA SEAの激しさは一変し、正統派のJ-Popのような耳あたりの良い音楽で河村さんのの美声が際立ちました。
LUNA SEAの頃は嵐の中に咲く花のような印象でしたが、ソロ以降は誰もの目を惹くダイヤモンドのような存在となりました。
30代で歌声が変化も俳優業やLUNA SEA復活で話題が絶えず
河村隆一さんは30歳になった2000年の12月23日にLUNA SEAとしてベスト・アルバム『PERIOD 〜THE BEST SELECTION〜』でオリコン1位を獲得。
このアルバムは20世紀最後のオリコンチャート1位となりましたが、12月末のライブでLUNA SEAが終幕となりました。
31歳になった2001年はLUNA SEAの看板は無くなりましたが、ソロとして2回目の紅白に出場。
ソロとしての人気も相変わらずですが、俳優業にも力を入れ始めました。
32歳になった2002年にはテレビ朝日系ドラマ『九龍で会いましょう』に主演で出演し、タイアップも担当しました。
また、映画『ピカレスク 人間失格』で主演で太宰治を演じるなどスクリーンデビュー。
河村隆一さんが若いと言える時期は主に00年代の中頃までですが、アラフォーと言われる時期になっても昔とは違う色気を放っていました。
2010年にLUNA SEAが再始動。声質の変化や体質の変化も人気を維持
河村隆一さんが40歳になった2010年には2000年に解散したLUNA SEAが復活。
年齢を感じさせない圧倒的なパフォーマンスでファンを喜ばせました。
しかし、全盛期とは声の雰囲気が変わっており、その点においては賛否ありました。
ヴィジュアルも少しずつ変化していきましたが、品の良い雰囲気は相変わらずです。
ある時期には2006年に結婚した佐野公美さんがメディアで面白い結婚エピソードを披露するなど、話題は尽きませんでした。
現在ではボーカルトレーニングの情報を共有するなど、今の自分に求められていることを精一杯にやっている印象です。
昔の河村隆一さんは神様のようなカッコ良さでしたが、ナルシストなイメージもありました。
しかし、現在の河村隆一さんの自然体で高貴な振る舞いは、若い頃よりも素敵との声が多いです。