
いきものがかりのボーカル・吉岡聖恵さんといえば、神奈川県厚木市からブレイクした地元の英雄です。
地元の厚木市には「ジョイフル通り」があったり、育ったライブハウス「サンダースネイク」があったりとファンにとっては聖地であります。
今日は吉岡聖恵さんの経歴と共に、学生時代や下積み時代のエピソードについて書いてみたいと思います。
吉岡聖恵の子供時代と実家の農家。60年ぶりの女の子で溺愛されピアノや合唱に励む
家族構成は両親と2歳年上の兄、6歳年下の弟の5人家族です。
実家は厚木市内の郊外で兼業農家で、今でも実家に帰ると農業を手伝うこともあるそうです。
吉岡さんの実家は曾祖父母と祖父母も一緒に暮らす大家族で、曾祖母から童謡を教えてもらったことで歌が好きになりました。
「両親が録っていた子供の頃のビデオを見ると、本当に歌っている場面が多くて「小さい頃から歌うことが好きだったんだなぁ」って自分でも驚きます」
幼稚園の頃からピアノを習い始め、ピアノは小学生まで続けました。
兄弟には女の子は吉岡さんしかおらず、男兄弟に挟まれて男勝りに育ちました。
兄は1歳年上で、弟はサム・クック似のイケメンだそうです。
吉岡家には60年以上も女の子が誕生していなかったことから、親戚を含めてかなり可愛がれて育てられました。
名前 | 吉岡聖恵(きよえ) |
出身地 | 神奈川県厚木市 |
生年月日 | 1984年2月29日 |
身長 | 160センチ |
血液型 | A型 |
出身小学校 | 厚木市立南毛利小学校 |
出身中学校 | 厚木市立南毛利中学校 |
出身高校 | 神奈川県立海老名高校 |
出身大学 | 昭和女子短期大学 |
吉岡聖恵はピアノを習い地元の合唱団で活動。中学ではミュージカルの舞台を経験
吉岡聖恵さんは南毛利小学校に進学し、小学校時代は「郵便屋さんごっこ」が好きで、自分で書いた手紙や折り紙を近所のおばあちゃん宅に勝手に配達するなど高度な遊びをしていたそうです。
小学1年んお頃には地元の合唱団の所属。
「合唱団には小学校1年生から6年生まで在籍していましたね。そこでは地域の友だちと一緒にピアノの伴奏で歌って、1年に1回ミュージカルの発表があったりもしましたね。高学年になると役がもらえて、4年生で初めて役をもらって、5年、6年のときはソロで歌うパートがあったんです。そういうみんなで歌うような音楽が大好きで、ひと際張り切って歌う子という感じでした」
合唱団では高学年からミュージカルに参加するなど、歌うことだけでなく表現力を培うのに役立ちました。
ちなみに初めて買ったディスクは小学校4年生の頃のMr.Children「CROSS ROAD」です。
子供の頃から邦ロックが好きだったようです。
中学生になると合唱部に所属し、中学1年と2年の時に地元にあったミュージカルのオーディションを受けて合格し舞台にも立っています。
中学時代は塾に通い、勉強に真面目で得意教科は英語でした。
学業が優秀だった為に、地元でも偏差値の高い高校に進学してます。
海老名高校時代に兄の呼び出しで”いきものがかり”に加入。短大時代に再結成しインディーズデビュー
高校は中堅の神奈川県立海老名高校に進学。
海老名高校での吉岡さんバトン部と放送部、そして軽音楽部を掛け持ち。
バトン部に関しては”目立ちたい”という気持ちだけ花形の部活に入っただけでした。
高校時代の彼氏はチャラい感じの彼氏がいたそうです。
また、男女数人のグループデートで花火大会に行き、その際に花火が打ち終わった後にすぐに「帰ろう」と言われ悲しかったとか。
学校には、オーダーメイドの真っ赤な自転車で通い、通学時はいつもかごの中に、タンバリンが入った教科書ケースを入れていたそう。(毎日遅刻ギリギリ)
「JUDY AND MARY」をリスペクトし、コピーバンド「ジュディマロ」を結成し校内でも人気を博していました。
吉岡さんはジュディマリのボーカル・YUKIさんに憧れていましたが、声質があまりにも違うため、似たようには歌えなかったそうです。
高校1年生の1999年11月に兄に呼び出されていきものががりの路上ライブに飛び入りして、そのままメンバー入り。
兄と他メンバーの水野良樹さんと山下穂尊さんは神奈川県立厚木高校の同級生だった縁からの繋がりで、活動圏内に女性ボーカルが少なかったことでの仕掛けでした。
3人で神奈川県の本厚木駅や海老名駅を中心に路上ライブを決行。
「私たちは路上ライブからスタートしているので、自分の感情を叫ぶという感じではなくて、曲の世界に入ってもらったり、曲に気持ちを重ねてもらうことで、足を止めてもらっていました。聴いてくれた人に「わかるわかる」って言ってもらえることを目指していました」
本厚木駅での毎週決まった曜日に行うライブでは、毎回数十人の方が見に来てくれたそうです。
吉岡さんは”いきものがかり”の他にも高校時代は「Hot Spring」というパンクバンドのボーカルも務めており、1人でも路上ライブを経験。
ハングリーな活動をしてるように見えましたが、3人共に学業を大切にしており、吉岡さんが高校2年生になった9月には1学年上の2人は受験準備の為に一度は”いきものがかり”を解散。
あくまで進学校に在籍していた2人だった為に、最初からプロ志望というわけではなかったのです。
本厚木駅前の路上で解散ライブを行うと150人が集まり、3人にとって最高の青春の思い出になったそうです。
ちなみに受験の方は失敗し、一浪を経て水野さんは一橋大学(※現役で明治に合格し仮面浪人)、山下さんは法政大学に無事に合格しています。
短大で挫折するも”いきものがかり”を再結成。インディーズデビュー
吉岡聖恵さんは高校卒業後は、昭和音楽大学短期大学部へと進学します。
大学では歌い方や歌唱法に幅を持たせるために音楽科のミュージカルコース(現在は廃止)に進みました。
短大での吉岡さんは自信があった歌唱が通用せず、声楽の先生に歌い方を否定されるなど挫折を味わうことになります。
「声の出し方が、ぜんぜん違ったんです。イタリア歌曲を歌う発声法を習得できなかったのが、いちばんツラい部分だったのかな。『ミュージカルコースに入って、おいしいところだけ歌に生かそう』っていうのは甘い考えだったんです」
ちょうどその頃、水野さんと山下さんがいきものがかりを再結成しようと吉岡さんに声を掛けましたが、一旦はお断り。
山下さんが「お前、ウジウジしてんなよ。ダメだったらやめていいけど」と言われ楽になり、短大2年の2003年に再び”いきものがかり”としての活動を再開。
インディーズバンドとしての評価は高くありませんでしたが、2003年6月にサンダースネーク厚木にて行った復活ワンマンライブでは300名近くにのぼる観客を動員。
そのサンダースネイクでのワンマンを、その後のマネージャーとなる人物が見に来ており運良く目に留まったのです。
「大学生になって初めて地元のライブハウスでワンマンライブをしたんですけど、手売りで300人くらいにチケットを売って、自分たちなりには大規模なライブだったんですね。そこに、たまたま初代のマネージャーになる事務所の女性が観にきていて、それが大きかったです」(山下穂尊談)
再結成した2003年8月に『誠に僭越ながらファーストアルバムを拵えました…』でインディーズデビュー。
3年間は地道な活動を要し、吉岡さんが22歳になった2006年3月15日にシングル「SAKURA」で、エピックレコードジャパンからメジャーデビュー。
同じ年にリリースした2ndシングル「HANABI」はオリコンチャートで5位を記録し、その後は一気にスターダムへのし上がりました。
ちなみに大学卒業の頃に運転免許を取りました、ほとんど運転せず、ペーパードライバーになってしまったそうです。
吉岡聖恵の下積み時代。酔っ払い対策や狩野英孝に敗北。バイト生活
吉岡聖恵さんは22歳でメジャーデビューし、その後は国民的バンドにまで成り上がりました。
しかし、下積み時代はそれなりに苦労もたくさんあったようです。
路上ライブを盛んにやってた時代は酔っ払いがヘッドスライディングしてきたり、マイクを奪おうとしてきたり大変だったそうです。
いきものがかり一同は、面倒くさそうな酔っ払いにマイクを奪われた際は、わざとボリュームを落としてマイクから音が出ないようにして対処していたそうです。
変に揉めるとせっかく集まった人が帰ってしまうので、自然なノリの範疇で、酔っ払いが「音が出ない!」と騒ぐのをみんなでコントっぽく扱ってプラスにしていたとのこと。
また、路上時代は本拠地の本厚木が通っている小田急の駅を中心にライブをしていましたが、新百合ケ丘駅では芸人の狩野英孝さんの”セントラルステーション”がずば抜けた集客を誇っており敗北。
”いきものがかり”は狩野英孝さんのグループがいる新百合ケ丘駅から撤退するという屈辱を味わったのです。
吉岡聖恵のバイト。マックやコンビのレジ
吉岡さんは短大で”いきものがかり”を再結成し、メジャーデビューするまで3年間の時間を要しました。
その期間、バイトもかなりしたそうです。
学生時代からを含めるとコンビニ、花屋、マック、英検の用紙回収、ラーメン屋などでのバイトを経験。
コンビニでバイトしていた頃は、レジの集計をやると計算が下手で毎回間違え先輩に「あんたみたいなどんくさい子初めてみた」と言われてしまったそう。
メンバー全員がお金がなく、車で遠征に行く際は1000円ごとにガソリンを入れ、その際は1人300で割るのですが、誰が400円を払うかでじゃんけん。
色々と苦労した末に、ようやくメジャーで売れて、ガソリン代も気にしなくても良い活動ができるようになったのです。