藤圭子の精神病から夫娘との別居、離婚、自死までの時系列。原因は毒親

70年代前半
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藤圭子(本名:宇多田純子)さんといえば、60年代後半から70年代に前半にかけてブレイクした歌手です。

実娘が日本を代表する歌姫・宇多田ヒカルであることでも知られています。

2013年に62歳の若さで自殺すると、再び壮絶な人生が振り返られ話題となりました

今日は、藤圭子さんが自死した理由、精神病を患ったきっかけ、亡くなるまでの大まかな出来事などについて書いてみたいと思います。

藤圭子は自殺するまでに7度の離婚。別居、5000万没収と薬物、離婚、飛び降り。

1951年7月5日 岩手県一関市に生誕。生まれてすぐに北海道名寄市に移住。
1954年・3歳 北海道旭川に引っ越す
1966年・15歳 旭川を離れ、北海道岩見沢市の温泉保養センター「きらく園」にて三条純子の芸名で専属歌手になる。
1967年・16歳 八洲秀章に見出され中学卒業と同時に両親と上京。八洲からレッスンを受けながらも浅草中心に流しの仕事。
1968年・17歳 発声のレッスンを受けていた作曲家・上条たけしのもとで作詞家の”石坂まさを”と出会う。石坂の三条純子から藤圭子に改名。
1969年・18歳 「新宿の女」で歌手デビュー
1970年・19歳 「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」が大ヒット。紅白出場。第1回日本歌謡大賞大賞、日本レコード大賞大衆賞、第3回日本レコードセールス大賞、第3回日本有線大賞優秀スター賞を受賞。
1971年・20歳 前川清と結婚
1972年・21歳 前川清と離婚。離婚理由に師匠・石坂まさをへの恋心?
1974年・24歳 喉のポリープ手術
1979年・28歳 「普通の女になりたい」と一度は芸能界引退。アメリカに渡る。
1980年・29歳 アメリカ・ニューヨークに滞在中に現地でコーディネーターをしていたミュージシャンの宇多田照實と出会う
1981年・30歳 藤圭似子の名で芸能界に復帰
1982年・32歳 宇多田照實と再婚
1983年・31歳 第一子の長女・光(宇多田ヒカル)を出産
1984年・32歳 芸名を「藤圭子」に戻す
1988年・36歳 精神状態が悪化。通院拒否や金銭トラブルなど家族関係が悪くなる
1993年・41歳 夫・照實と有限会社ユースリー・ミュージックを東京都杉並区に設立。取締役となる。
2002年・51歳 夫・宇多田照實と別居。ニューヨークを拠点に世界中を気まぐれに旅する生活を送る。家族には時々電話をかけていた
2006年・55歳 ケネディ国際空港にて約42万ドル(当時のレートで約4900万円)の現金を没収される騒動を起こす。(後に返還)世界中のカジノで5億以上使ったと発言。
2007年・56歳 夫・宇多田照實と離婚(何度も繰り返し7度目)。姓は宇多田のまま(本名は宇多田純子)。離婚後も家族との交友は続く。知人男性のマンションで同居開始。
2010年・59歳 11月に母・澄子が肝癌で80歳で死去
2013年8月22日・62歳 西新宿の高層マンション13階から転落死。自殺とされる。享年62歳。同年3月に死去した恩師・石坂まさをさんのお別れ会の前日だった

藤圭子は毒親に振り回される。乳児で農家の営業を共にし、少女時代は納豆や豆腐を売り、高校進学は許されず流しの仕事。

藤圭子(本名:純子)さんは1951年に岩手県に三人兄弟の末っ子として誕生し、北海道で育ちました。

父の・阿部壮(つよし)と母の阿部澄子さんは、三味線を伴奏にして独特の節と語りで物語を進める語り芸を駆使する浪曲師でした。

父は松平国二郎、母は竹山澄子という芸名で知られており、幼少期は旅回りの巡業での即興をしのぎにしていましたが生活は困窮。

稼ぎが足りない時には長女・富美恵に乳児だった純子(藤圭子)さんを背負わせ、母は三味線を抱え、父は長男・博(歌手・藤三郎)の手を引き、農家一軒一軒を営業にまわるなど、安ぎのない幼少期を過ごしました。

小学生にして人前で歌って稼ぐ。中学までに娘の稼ぎをアテに自宅を購入

小学生になる頃には巡業の都合で転校を繰り返し、家にご飯がない日は子供たちが率先して自ら納豆や豆腐を売り歩き日銭を稼ぐこともあったそう。

藤圭子さんも家族の都合で小学5年生の頃から歌い始め、歌の上手い子供として評判になり、中学生になる頃まで一家が自宅を購入できるほどに働きました。

勉強が好きで学業優秀でしたが、高校進学は許されず、中学卒業と同時に上京し東京浅草などで母と共に流しをして家計を支えました

恩師・”石坂まさを”と出会い売れる。前川清と結婚するも即離婚。同性愛説なども残る

17歳の頃に当時は東芝に所属していた作詞家の”石坂まさを”さんと出会います。

石坂さんは、藤圭子さんの若くして哀愁をにじませた説得力溢れる歌唱と、不遇な生い立ちに魅了されスカウト

藤圭子さんは石坂さんの新宿区東大久保の自宅に住み込み、スパルタレッスン

この頃、藤圭子さんは多くのレコード会社のオーディションを受けますが、全て不合格。

石坂さんは知り合いのRCA/ビクターのプロデューサーだった榎本襄さんに藤圭子を紹介し、榎本さんは”モノになる”と感じ、すぐに「ぜひRCAでやらせて」と強く勧めました。

しかし、納得する形でのデビューは難しく、結局は石坂さん自ら東芝を退職し、日本音楽放送・工藤宏氏と藤プロダクションを設立する形となりました。

工藤氏を社長、石坂さんが役員、芸名を藤圭子としてRCA/日本ビクターから「新宿の女」でデビューすることとなります。

石坂さんが提供した楽曲の多くは不遇の境遇に苦しむ人間模様が投影されており、藤圭子さんの哀愁漂う歌唱と相まって数々の記録的ヒットを樹立しました。

この頃には兄と取っ組み合いの喧嘩をして絶縁するなどしています。

ちなみに藤さんを売り出すにあたって、話題作りのため藤さんを銭湯の男湯へ飛び込ませ、当時から違法行為であったポスターを町中に貼ったり、音楽出版社に押しかけ仮病(口から泡を吹く)を使って、「記事にしないとここで死ぬ」と推し営業など。

なりふり構わぬ営業を厭わず、石坂さんは藤圭子さんの話題作りに尽くしました。

前川清と結婚するも関係は初夜のみ。1年で離婚。理由に同性愛説や恩師・石坂に恋してる説

藤圭子さんはデビューしてわずか2年後の1971年に3歳年上の歌手・前川清さんと結婚

結婚式は前川清さんの地元である長崎県佐世保市俵町教会で挙げられました。

しかし、結婚からわずか1年後の1972年に離婚を発表。

離婚会見は12日に赤坂プリンスホテルで行われました。

前川清さんとの離婚理由には諸説ありますが、RCAレコードの榎本襄氏は挙式前に藤圭子さんから”結婚を辞めにしたい”と聞いており、結婚前から冷めていたことがわかっています。

また、藤圭子さんは結婚前から男性恐怖症のようなところがあり、前川さんとの会話も少なかったそう。

歌手の付き人であった”ヒロコ”と同性愛の関係だったとの噂があり、そもそも男性との交際に抵抗があったのでは?と言われています。

離婚後、元夫となった前川清さんは、夫婦と呼べる時間はほとんどなく、男女の関係も初夜のみで、その1回すらも盛り上がらなかったと証言してます。

また、恩師であった石坂さんに恋心があり、引きずっていたとの憶測もあり、そもそもなぜ前川清さんと結婚したのかが疑問です。

再婚後に宇多田ヒカル出産。精神病が深刻化し別居。7度の結婚と離婚。銀行を信用せず大金を持ち歩き5000万没収

藤圭子さんは一度は引退宣言をし渡米し、夫・宇多田照實(音楽プロデューサー)さんと出会います。

1982年に宇多田照實さんと再婚し、結婚後に改名して歌手復帰。

1983年1月19日にニューヨークで長女・光(宇多田ヒカル)を出産

当時の藤圭子さんは網膜色素変性症を発症しており、視力が徐々に低下していたことから「我が子から光が失われないように」という願いを込め「光」(ひかる)と命名しました。

その後、藤圭子さんは母親が自分に芸を教えたのと同じように、我が娘の光を世界で通用する歌手に育てるため、夫・照實とともに光を連れて渡米

藤圭子さんは昔からアメリカの音楽との壁を痛感しており、自身もアメリカ人になりたいと強く願っており、娘にはアメリカのパッションを染み込ませる必要があると考えていたようです。

家族での渡米は多額の資金が必要で、お金が足りなくなると日本で歌い、お金が貯まるとまた渡米することを繰り返し、宇多田ヒカルを育てました。

夫も音楽プロデューサーの仕事のためにスタジオに篭り、時には引っ越しばかり、娘の光さんは仕事に忙しい両親に甘えることができず、感情を殺していたそうです。

この頃から藤圭子さんの精神状態がとても不安定になり、通院拒否、金銭トラブルなどを抱え、家の中では幼い娘や夫に対して酷い態度を取るようになりました。

5歳の宇多田ヒカルさんに「悪魔の子だ」と言ったり、「もうお父さんに会わせない」と転校を強制させたりしたそう。

夫は藤圭子さんの様子が変わったことに気付くと、1986年に一度離婚、それから1カ月も経たない内に電撃再婚と、その後も6、7回、離婚と再婚を繰り返しました。

アメリカでの生活の為に芸名を再び「藤圭子」に戻し、いくつかのテレビ番組にも出演し、娘・光が宇多田ヒカルとしてデビューする直前の1997年まではテレビ出演を続けました。

宇多田ヒカルが15歳となった1998年に歌手デビューし、これを機に藤も再び注目を浴びました。

その後、娘のデビューと入れ替わるように自身は歌手活動を封印し、以降ほとんどステージで歌うことはなくなりました

娘の結婚に「金目当て」。銀行を信用せず大金持ち歩き5000万没収。最後のメディア出演で危険な姿を晒す

宇多田ヒカルが5歳になる1988年頃から、 夫と娘へ攻撃的な言動が見られるようになった藤圭子さん。

現実と妄想の区別が曖昧となり、手がつけられない状況になっていました。

宇多田ヒカルが2002年9月6日の19歳の時に映画監督・紀里谷和明さんと結婚した際、藤圭子さんは「相手はお前のお金だけが目当て」と娘の結婚に大反対し、同じ頃に夫と別居。

夫と別居した後の藤圭子さんは、「銀行を信用できない」として大金を自分も手元に置き、キティちゃんのバッグに札束を詰めてアメリカ・ニューヨークを拠点に放浪

2006年にニューヨークのケネディ国際空港の荷物検査で、大金を持ち歩いてることを空港職員に怪しまれ、約5000万(42万ドル)のお金を没収されてしまう事件を起こします。(2009年に事件性はないとして返還)

42万ドルを没収された後、自ら各テレビ局の代表に電話し、急遽インタビュー、そこで『5年間世界を旅していたが、カジノで5億円は使ったと発言。

また、別の局では放送は見送られましたが、

「私はもう藤圭子でもなんでもない。(藤圭子は)お金もうけのために、人からもらった歌を歌って、喜びも悲しみもわかちあって、10年で幕を閉じた」

との発言をしてるカットシーンもあったそう。

インタビュー中は早口で一方的に話し、目の焦点が合っておらず、放送に使ったシーンはまともに見えたところだけだったそう。

この2006年のインタビューがメディアに出た最後の姿となりましたが、この時点で相当に病気が悪化していたのは明白でした。

2007年に最後の離婚。その後は死去するまで年下の男性と一緒のマンションで暮らす

5000万没収事件から1年後の2007年に藤圭子さんは夫と7度目の離婚

この離婚を最後に再婚はしませんでした。

離婚後は新宿区で30歳も年下の男性と同居

ある報道で、藤圭子さんが2007年頃に「理想の相手が見つかった」と発言したと書かれていたことで、最後に同居していた恋人だと思っている人もいます。

しかし、藤圭子さんが最後に一緒に住んでいた男性の正体は、藤さんの元マネジャーで、元夫の宇多田照實さんから頼まれて介護をしていたそうです。

同居男性も藤さんの死後の警察の調べに対して、

「恋人関係ではない。寝室も別」

と話しています。

亡くなった後、警察が突然自宅に来て、その時に藤さんがいないことに気付き、自殺したことを知ってショックを受けたそうです。

藤圭子は自宅マンションから飛び降り自殺。宇多田ヒカルは「何もできませんでした」。遺書に”葬儀なし直葬・海に散骨”

藤圭子さんは2013年8月22日朝、東京・西新宿のマンション13階から飛び降り、搬送先の病院で死亡

62歳の若さでした。

藤圭子さんは東京・西新宿6丁目のマンション前の路上であおむけに倒れ、頭から血を流しているところを通行人が発見。

服装は黒っぽい無地のTシャツに七分の短パン姿で衣服の乱れや争ったような跡はなかったそう、顔はとても綺麗な状態だったそう。

飛び降りたマンションの13階のベランダには高さは115センチの手すりがあり、足元にはクーラーボックスがあったことから踏み台にした可能性も。

手すりの外側に片方のスリッパが引っかかり、もう片方は現場近くに転落。

アルコールや薬物は検出されず、すぐに新宿署は飛び降り自殺と断定しました。

藤圭子死後の宇多田ヒカルのコメント。遺書に”葬儀はいらず”。遺灰を海に撒く

娘の宇多田ヒカルさんは、母・藤圭子さんの死後、しばらくの沈黙の後、自身のブログから追悼コメントを出しました。

宇多田ヒカルさんの投稿には、藤圭子さんが長年精神病に苦しんでいたこと、本人を通院させられない深刻な状況だったこと、家族として何もしてあげられなかったこと、などが書かれていました。

亡くなった当初は他殺説があったり、元夫の陰謀説が記事にされたりと散々。

宇多田ヒカルさんの声明の中では報道で母の苗字が間違いなどについても触れていました。

「宇多田純子です。父と離婚後も、母は旧姓の阿部ではなく宇多田姓を名乗ることを希望し、籍も父の籍においたままでした」

憶測や報道の勘違いがひどかったために、娘自らが注意喚起、また離婚してる状態ではありますが、火葬などは宇多田家が仕切ることも報告されました。

藤圭子さんの遺言の内容に基づいて、葬儀は行わず、火葬のみ

遺骨も遺言状に従って海に散骨したそうです。

生前は世界中を放浪していた彼女だけに、世界中のどこにでも繋がっている海に撒くのは最善だったと思われます。

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