フェスやメディアに出れば強烈なインパクトを残すサンボマスター。
メッセージ性の強いパフォーマンスは、観てる人の心に響き、バンドの虜になります。
フロントマンである山口隆さんこそバンドの顔ですが、露出は未だに控えめです。
山口隆さんの生い立ちを調べても、情報がバラバラで整理されておらず、経歴が掴みにくいです。
今日は山口隆さんの生まれから、学生時代について分かっていることをまとめてみたいと思います。
サンボマスター・山口隆の学歴。北会津中学→会津高校→浪人→東洋大学
名前 | 山口隆(やまぐちたかし) |
生年月日 | 1976年2月8日 |
出身地 | 福島県会津若松市(旧:北会津村) |
出身中学 | 会津若松市立北会津中学校 |
出身高校 | 会津高等学校 |
出身大学 | 東洋大学法学部 |
山口隆の幼少期・少年時代。父親は学校の先生でジャズ好きで影響を受ける
山口隆さんは福島・会津若松出身です。
父親は学校の先生で、ジャズや西部映画が大好きな方でした。
一方で、母親はサンボマスターが「ラブソング」を作ると、「あぁいう曲ならわかりやすい」と言うなど、父親ほど音楽には精通してない、普通の良き母のようです。
実家は夜中になると家の周辺にカエルの鳴き声が響くような田舎で、子供の頃の回想はインドアな思い出ばかりです。
サンボマスターの公式チャンネルで地元・会津若松を訪問してる動画がありましたが、名所などの知識は乏しく、子供の頃から家の中が大好きだったことが想像できます。
山口隆は幼少期からよく喋る子供だった
ライブのMCでハツラツと喋り続ける山口隆さん。
メディアや楽屋でもメンバーの中でも一番喋るその明るいキャラクターですが、それは子供の頃から同じだったようです。
山口さんは幼少期から周囲の大人に「しゃべりすぎるんじゃない!」と注意されていたそう。
「口から先に生まれた」とまで言われており、よく「ヘラヘラすんな!」「男たるものしゃべりすぎるんじゃない!」と説教されていたそうです。
現在はよく喋るMCが効いた男前なライブをしているのはあの頃の大人たちに対する良い皮肉ですね。
ジャズ好きの父親の巨大なステレオセット。ジャズや音響メーカーに詳しくなる
山口隆さんの父親は学校の先生で、ジャズ好きで、実家には豪華なオーディオシステムがあったそう。
休日にお父さんの学校の関係者が自宅に来ると、オスカー・ピーターソンやエディ・ダニエルズ、日本人だと北村英治さんなどのジャズを流し、山口さんは小学生ながらもそこで音楽を覚えたそうです。
また、音響システムがあったことから、子供ながらにアキュフェーズ、タンノイ、JBLなどのオーディオメーカーの名前まで知っていたそうです。
山口隆の青春時代はロックと田舎。北会津中時代にギターを買う。高校は進学校
学校の先生を父に持つ山口隆さんは、中学時代から勉強がよくできました。
自宅でアメリカ文化に触れ、音楽にも触れ、徐々にロックに目覚めていきます。
ただ、当時の福島の土地柄、ロックミュージックへの理解が弱く、楽器を始めるのに苦労し、一緒に音を奏でる仲間も見つけられなかったようです。
田舎ながらにアメリカの音楽と映画に包まれた生活を送る
中学時代の山口さんは休日になると午前はテレビで「特攻野郎Aチーム」や「冒険野郎マクガイバー」などを鑑賞。
そして、午後になると父のお客さんが来て、アメリカのジャズを流れるなど、休日はアメリカにいるような生活でした。
その頃からイギー・ポップ&ストゥージズなど洋楽ロックを覚え始め、自分なりに探して効いてたそう。
夜中にカエルがゲコゲコ鳴ってるような農道をウォークマンをつけて、自転車で爆走したという良い思い出があるそう。
ただ、家には素晴らしい音響システムをありましたが、そのオーディオからロックを流すことはできませんでした。
その他にも、父が好きなアメリカの『バス停留所』や『ウィンチェスター銃’73』などの西部映画などもよく鑑賞し、アメリカ文化を潜在的に植え付けられたのでした。
英検3級に合格して初めてのエレキギターを買ってもらう
中学時代からロックミュージックの良さに目覚めた山口さん。
やがて、キース・リチャーズ、ロン・ウッド、ロバート・クレイ、バディ・ガイ、B.B.キング、アルバート・キングなどギタリストに憧れるようになります。
当時、福島が田舎ということもあって、エレキギター=不良のイメージがあり、なかなかロック趣味を認めてもらえなかったそうです。
それでも、どうしてもエレキギターが欲しかった山口さんは親に「英検3級が受かったら買ってくれ」と親に頼み、なんとかアンプ付きの入門セットを買ってもらったそうです。
初めて買ったギターを鳴らした瞬間、”自分の居場所はここだ”と、大興奮したそうです。
高校時代もロックに熱中もバンドは結成せず。ジャームズ・ブラウンの来日公演でピックをもらう
山口隆さんは中学を卒業すると、福島の難関校・会津高校に進学。
会津高校は県立の男子校で、女性との接触がなかったことが、後の原爆○ナ○ーズらとの活動に生きました。
中学の頃に買ってもらった入門セットでギターをかき鳴らしまくり、腕前も上がっていきましたが、真面目な進学校で音楽仲間は見つけられませんでした。
結果的に、高校の頃にはバンドを組むなどはできませんでした。
ジャームズ・ブラウンが来日公演を行った際には観に行き、ライブ終演後にギターのローランドラスターが山口さんを指さして、その日使ってたピックを手渡ししてくれたというサプライズがありました。
何もない高校時代はノイローゼ気味。ソウルミュージックに救われる
山口隆さんの実家のある北会津村大字下米塚三本松本人というエリアは、福島の中でも1位を争うほどの田舎で、本人も「田舎どころじゃないぐらいの田舎」と仰っています。
大自然に囲まれた実家周辺はまさに何もなく、夏なると蒸し暑さに蝉の鳴き声のみが鳴り響き、「お前は死ぬんだ、お前は死ぬんだ」と言われ続けているような気がして憂鬱だったそう。
やがて、自分の死を何度もイメージするなど、ノイローゼ気味になってしまったそうです。
そんな時期にソウルミュージックに出会ったことで、「自分はこのままでいいんだ」という気持ちになり、前向きになれたそう。
サンボマスターメンバーと出会った東洋大学時代。カリスマだった近藤洋一がキーマンだった
サンボマスターのメンバーが東洋大学のサークルで出会ったのは知られた話です。
山口隆さんは地元屈指の進学校”会津高校”に在籍していましたが、受験では失敗しています。
過去にブログで”試験も小論文も逃げ出したいぐらい苦手だった”と綴っており、最初の年は受験に入る前に浪人が確定するなど痛い想いを告白してました。
それでも中堅の東洋大学の法学部に合格して進学してるのですから、ポテンシャルのある学生だったことが伺えます。
大学時代は近藤洋一(ベース)の家に入り浸る。パチンコで年間600万稼ぎ後輩を食わすカリスマだった
大学時代は近藤洋一さんの自宅に入り浸っていたという山口さん。
近藤さんの家は本人不在でありながらも玄関は開けっ放しで、たくさんの友達の溜まり場になっていました。
家が東洋大の東京キャンパスと埼玉キャンパスの間にある要町にあったことから、多くの仲間が都合よく訪問していたのです。
近藤さんは大学生でありながらもパチンコで年間600万稼いでおり、資金力が凄まじく、飯が食えない後輩などを食わせていたそう。
東洋大学の”あまり行かない学生”や、はみ出し者達にとってのカリスマだったのです。
山口さんはタクシーで近藤さんの自宅に行く時もあり、その際は近藤さんに「着いたよ」と報告してタクシー代を払ってもらっていたそう。
また、山口さんがのサークルで結成したバンド(近藤・木内より前)のライブには1回も欠かさずに観に来てくれたなど、年下でありながらも結成前からずっとお世話をしてくれた関係でした。
音楽サークルで近藤洋一と木内秦史と出会う。1軍ではなく端っこにいるグループだった
山口さんは東洋大学の「作詞作曲研究会JAM」に入り、最初は別でバンドを組んでライブをしていました。
近藤さんと木内さんの3人は音楽サークルの中でも隅っこにいたタイプで、決して目立った存在ではなかったそう。
3人で朝霞キャンパスの図書館下の食堂に集まっておしゃべりをしたり、近藤さんの自宅に集まってダラダラしていたそう。
就職はせず無職。木内に「心中しよう」、近藤に「ベース持ってきて」とサンボマスター結成!
山口さんは大学を卒業間際にも就職活動をせず、無職のまま大学を卒業しました。
一度だけスーツを着込んで説明会に行こうとしたそうですが、たまたま電車の窓から木内さんの姿を目撃し申し訳なくなって引き返したそう。
1年後に木内さんが卒業して就職せずにフラフラしてるのを知ると、木内さんに「俺とバンドで心中しよう」と誘いバンドを組むことに。
最初に入ったベースの人と山口さんは合わずベースは不在。
そこでベース未経験ながらも資金力のあった近藤さんに「ベース持ってきて」と無茶振りすると、翌日に待ち合わせの場所に近藤さんがフェンダーの10万するベースを持ってきてくれ、その流れで加入。
これでオリジナルメンバーが揃い、現在までに至るということです。
ちなみにサンボメンバーの年齢と学年の構図はややこしく、
年齢=山口(早生まれ)>木内>近藤
学年=山口(1浪)>木内>近藤
です。







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