藤井風の実家と美形の兄弟姉。音楽一家の凄み。学歴やルーツ

令和初期を代表するシンガーソングライターの藤井風さん。

自身で発信する音楽コンテンツから注目を浴び、多数レーベルからオファーを受け続け、オリジナル曲をリリースする前からチケット完売&ラジオ出演など注目される逸材でした。

売れ方や経歴が異色だといわれている藤井風さんですが、そのルーツも注目されています。

今日は藤井風さんの幼少期や、学生時代、実家や家族(兄弟)について書いてみたいと思います。

藤井風の学歴。子供の頃から可愛がられ高校時代からイケメン!高卒で語学は独学

藤井風さんは岡山県出身で、一人称が「ワシ」で知られています。

1994年に4人兄弟の末っ子に生まれ、小さい時から家族全員に可愛がられてきました。

藤井風さんの家族との関係を振り返る前に、地元でどのような子供時代、青春を過ごしたのか振り返ります。

名前 藤井風(かぜ)
生年月日 1994年6月14日
出身地 岡山県浅口郡里庄(さとしょう)町
血液型 B型
身長 181センチ
出身小学校 岡山県里庄町立里庄西小学校
出身中学 岡山県里庄町立里庄中学校
出身高校 岡山城東高等学校 音楽学類 ピアノ専攻

藤井風は岡山県里庄町立里庄西小学校出身

藤井風さんが少年時代に通った小学校は、里庄町立里庄西小学校です。

幼少期から家族の影響で楽器などに触れていた藤井風さんは、スポーツよりも音楽に夢中だったそうです。

小学生の頃は、学校が終わって家に帰ってくるとすぐにピアノを弾くというルーティンがあったそうで、映画館に行ったことすらなかったそうです。

当時から目がクリクリしてて可愛らしく、街ではアイドル的存在で、ジャニーズ事務所に入るべきだと言われることもあったそうです。

小学校の登校は、藤井さんが朝の登校班の時間に間に合わなく1人での登校が多かったそうですが、両親が角で見えなくなるまでお見送りをするなど、とても愛されていたようです。

ちなみに過去にSNSで藤井さんと同じ学校だった方が、間に合わなかった藤井さんが走って登校班を追いかけていたという裏話を投稿し話題にあったこともありました。

また、運動会のかけっこでは腕を振るのではなく、両手を飛行機のように広げてふわふわと走っていたそうです。

大好きな音楽もゲーム感覚で楽しんでおり、まるで中世のお姫様のような少年時代を過ごしています。

小学校中頃(3年〜4年)にはピアノだけでなくサックスやエレクトーンにも挑戦していたようです。

小学6年生の頃(2010年)に、YouTubeチャンネルを立ち上げて音楽動画を配信していたから驚きです。

ちなみに当時に投稿していたのは60年代、70年代の両親世代の楽曲が中心でした。

藤井風の岡山県里庄町立里庄中学校時代

藤井風さんは岡山県里庄町立里庄町小学校を卒業すると、そのまま岡山県里庄町立里庄中学校に進学しました。

小学高学年の頃にYouTubeチャンネルを立ち上げた藤井風さんですが、初めは昭和の名曲ばかりでした。

中学生になると2000年代にヒットしたGReeeeNやRADWIMPSなどの近代的な音楽のカバーをアップするようになり、視聴者もドッと増えました。

特に中学3年生の頃にアップした「千本桜」はネット上で大きな反響を呼び、藤井さんの存在を広く知らしめるきっかけとなりました。

ただ、中学生の時は男子がピアノを習っているということが恥ずかしいという理由で、友人にはピアノが弾けることは隠していたそうです。

学校ではお笑いが好きだったことから、友人と共にネタ作りをしてクラスメイトの前で披露をしていました。

中学の卒業文集の「〜な人といえば?」を自身のSNSにアップしたことがありました。

藤井風さんは、「おならからラベンダーの香りを漂わせそうな人」で3位、「明太子を一粒一粒食べそうな人」で1位、「会いたくて会いたくて震える人」で2位、「ルパン三世の実写化があったら 峰不二子役」で2位でした。

このランキングの内容からも、クラスで人気者で、弄りやすくもモテモテなキャラだったことが伺えます。

また、友達へのメッセージもアップしていましたが、当時にして普通とは違った感覚の学生だったことが伺えます。

「みんなへ」の欄に、

人生は一本の映画。
どんな舞台設定でも、
どんなストーリー展開でも、
いつも冷静に、決して恐れずに、
善い主人公を演じ切って、
天国でアカデミー賞を貰いましょう。」

と渋い言葉を残しており、現在の藤井さんのセンスそのままでびっくりしますね!

ちなみに中学2年生までは部活動をおこなっていましたが、中学3年生の時からは帰宅部だったようです。

藤井風の岡山城東高等学校時代と卒業後

里庄町立里庄町中学を卒業すると、地元の音楽の名門・岡山城東高校に進学しました。

音楽類は個別の入試が必要でしたが、藤井風さんは試験を難なく突破して入学しました。

城東高校は有名アナウンサーがOBにいるなど、県内では偏差値がそこそこの良い学校です。

校則も緩く金髪もピアスもOKなため、この地域の学生の間では「青春を楽しむなら城東に行くべき」と言われているそうです。

藤井風さんは実家から高校まで遠く、電車で片道1時間半以上かかり、毎日往復で3時間以上を通学時間に費やしていたそうです。

藤井さんは高校時代は音楽漬けだったことをインタビューで話しています。

2021年3月1日テレビで『 藤井風さん「♪旅路」』という特集が放送されました。

番組では城東高校吹奏楽部の恩師である森野先生が、藤井さんが一人でピアノ練習をしていたのを見かねて、全国の合唱コンクールの伴奏として連れ出し、結果、数々の賞を受賞した逸話が明かされていました。

高校生になると部活では吹奏楽部でピアノを担当し、授業と共に忙しく、小学生の頃から始めたYouTubeも、高校生の頃は一時期的に活動休止していました。

部活ではピアノだけでなくサックスやベースを担当し、歌唱をすることもあったそうです。

その頃の藤井さんの両親は、歌の才能があることに気付かず、歌うことを反対していたそうです。

「ブラックミュージックにはまっていたかもしれないです。高校時代。わし実はずっと歌う人になりたいと思っとって。でもなんか…親はピアニストになると思っとったんですよ。だから…そう親とそのことでバチバチになることもありましたけど、高校の終わりにコンサートがあって、そこで初めて親も呼んで歌を歌ったって感じですね。『本気出したら歌えるんじゃのう』みたいなことは言われました。」

記事引用:GREE

高校最後の演奏会で両親を招き歌声を聴かせたところ、「思ったより上手く歌えるんやな」と認めてもらえたそうです。

高校生の頃から、演奏だけでなく歌うことへの欲求も強くなっていったそうです。

藤井風は高校卒業後は地元で音楽活動を続けアイドル的人気を誇る

高校卒業後は、浅口郡里庄町の実家で生活を続け、大学には通わずにYoutubeでの発信や、地元のイベントなどで弾き語りを披露するなどしていました。

あれだけの才能と陽気なキャラクターがあれば、すぐにでも上京を考えそうですが、ここは意外ですね。

成人時期も地元で迎えています。

最初のライブは倉敷国際ホテルでチャリティーコンサートで、以降はお寺で就活セミナーの前に弾き語りをしたり、夏祭りで歌ったりなど、地元密着の活動をされ、地元では名の知れた音楽家となりました。

あるコンサートでは、ライブ終了後の握手会のでおばさま達が長蛇の列ができるなど、ちょっとした地方アイドルのような存在になっていました。

藤井風がニューヨーク大学に留学したのは誤解

藤井風さんの最終学歴は岡山城東高校ですが、ネット上ではアメリカの大学に音楽留学したという噂も書かれています。

なぜ、このような噂が出てしまったかというと、それは藤井さんがニューヨーク大学のスウェットを着ていたせいです。

藤井さんは2021年3月1日に放送された「報道ステーション」に出演し、そこで「NYU」のロゴのスウェットを着ていました。

「NYU」とはニューヨーク大学の略で、英語が話せて音楽の知識が多彩な藤井さんだけに、音楽の名門であるニューヨーク大学に留学したのでは?と噂されたのです。

この大学名が入ったスウェットは、過去にブランド「チャンピオン」が、各大学の学生にスウェットを製造していた頃の貴重なアイテムで、後にレプリカがブランドの看板商品になるほど人気で、本物は高額で流通されています。

藤井さんがスウェットを着ていた2021年は、チャンピオンは大学への製造&支給はしておらず、藤井さんが古着で高額な当時物を購入したか、レプリカ品を購入したかで、あくまでファッションとして着ていただけです。

ちなみに古着市場では「ハーバード大学」や「ミネソタ大学」なども人気で、藤井さんが古着好きであれば、他大学も所有してることでしょう。

来ていたことで誤解してしまったよう

藤井風と家族兄弟姉と音楽の関係。実家は喫茶店で父の影響を受ける

藤井風さんは4人兄弟の末っ子で、小さな頃から兄弟姉たちからも可愛がられていました。

滑り台の下に生えてる草を食べるような野生的な子供だったそうです。

2歳の頃にインドに連れて行ってもらうという、変わった幼少期を過ごしています。

上に男1女2という構成ですが、長男の空さんとは13歳差で、風さんが物心ついた頃には家を出ていた為、少年時代から主に姉2人に可愛がられて育ったそうです。

兄弟姉の全員が自然に纏わる名前を付けられています。

また、兄弟姉の全員が楽器を嗜むなど音楽一家であることでも知られています。

名前
長男
長女
次女
次男

藤井さんが大人になると、長男との交友も増え、プロになった後は一緒に演奏するなど良いコンビで知られています。

お姉さんたちとも仲良しで、ファンからは「綺麗な姉たち」と人気です。

次女の陸さんは10歳年上ですが、小さい頃から姉のことが大好きで、姉がテレビを観て好きな芸能人をの話をしてると嫉妬をすることもあったそうです。

父はミュージシャン志望だった。喫茶店を経営して子供達に夢を託す

藤井風さんの岡山県の実家は「ミッチャム」という喫茶店を営んでしました。

父親は中学の頃からフルートやトランペットを始め、ミュージシャンを夢見ており、喫茶店経営が音楽活動の拠点にもなると考え、喫茶店をオープンしたのです。

しかし、子供が生まれてから余裕がなくなり「夢を子供たちに託した」と、自分の子供らに音楽が好きになるように環境と時間を投資したのです。

2010年の藤井さんが小学6年生の頃に、「これからはYouTubeの時代だ」とチャンネルを立ち上げて動画投稿をするきっかけになったのも父でした。(※ヒカキンは2011年)

藤井風さんの音楽のルーツは主に父であり、子供の頃から父がジャズやクラシック、ポップなどあらゆるジャンルの曲を潜在的に聴かせていたことで、音楽と距離の近い幼少期を過ごすことができたのです。

朝の目覚め、歯磨きなど、生活のシチュエーションによって合う音楽を選曲してくれてたというから驚きです。

2歳から父の膝の上で鍵盤を叩き始め、3歳からピアノを始めましたが、家には電子ピアノしかなかったそうです。

それでも田舎という利点から、毎日、好きな時に、好きなだけピアノを弾くことができ、結果的に絶対音感を身に付けることができ、プロも驚くような強い音が出せるようになったのです。

父はピアノのプロではありませんでしたが、基本的なことはなんでも知っており、分からないことがあったらすぐに教えてくれたそうです。

20歳までにマックシェイクを飲んだことがないぐらいに、音楽に没頭した生活を送っていたそうです。

藤井さんは英語がペラペラですが、これもピアノ同様に父が共に学び成長した証です。

また、父からは音楽だけでなく、人の接し方やマナーなども叩き込まれるなど、人としても大きな影響を受けています。

藤井さんはお父さんのことを「おとん」と呼び、ファンも父のことを「おとん様」と呼んでいます。

父のことが大好きな藤井さんですが、母のことも同様に大好きで、嫌いになったことは一度もないと言います。

今でも父にもらったサングラスを音楽活動で愛用したり、母にもらった手縫いのタオルを使用してたり、両親への愛情は絶えないようです。

デビューのきっかけは実家の両親にまで挨拶に来た河津知典マネージャーの誠実さ

藤井風さんが世に出るのに、良い役割を担ったのがガールズバンド「SHISHAMO」の宮崎朝子さんです。

宮崎さんは現在の藤井さんのマネージャーである河津知典さんに彼の才能を教えると、河津さんは必死になって藤井風さんを音楽業界に誘ったそうです。

しかし、藤井さんは音楽関係者に会って、夢のような良い事ばかり言われ不審に思い、河津さんの誘いにも初めは乗り気ではなかったのです。

河津さんに藤井さんを勧めたSHISHAMOの宮崎朝子さんは強気に藤井風さんを押し続け、結果的に河津さんは藤井さんの実家に来て両親にまで挨拶をしたのです。

その結果、藤井さんは河津マネージャーの誠実さと熱意に感動し、両親からも「河津さんを悲しませたらいけないんじゃないか」という言葉もあり、上京を決めたとのこと。

親への挨拶が重要だと思わせるほどに、藤井風さんの両親に対する尊敬と愛情が深かったということですね!

上京前夜に号泣。生まれ育った里庄町を離れたくなかった

藤井風さんは家族だけでなく、生まれ育った里庄町への気持ちも人一倍強いです。

河津さんの誘いで21歳の頃に上京し本格的に音楽活動を開始しますが、地元を離れる前夜はとても辛かったそうで、泣いてしまったそうです。

「旅立つ前夜は『あ~わしもいよいよ東京に行くんかもしれん』と思って、アホみたいに泣いたんすけど実は。なんでこんなに泣けてくるんやろうって思うぐらい泣いたんすけど、でも当日になったらなんか泣いてすっきりしたんかもしれんけど、すごい晴れやかな気持ちで行ったと思います。」

藤井風さんは地元のことを、

「何もないところで大人も子供もみんな仲良しみたいな場所」

「全ての思い出がここにある」

と語るほどに、生まれ育った里庄町のことを愛しています。

クリエイティブな仕事を目指す多くの若者は早いうちに都会に出て、洗練した日々を送りたがりますが、藤井さんはそうではなかったのです。

藤井さんの家族や故郷を大切に思う気持ちが、音楽の個性に色濃く出て多くの人に愛されているのだと思います。

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