現在は多方面に活躍するマルチクリエーターのGACKTさん。
ソロアーティストとして多くのファンを取り囲み、00年代はカルト的人気を誇りました。
そんなGACKTさんはソロになる前にはヴィジュアル系バンドの大御所・MALICE MIZERに在籍していました。
今日はMALICE MIZER時代のGacktさんと、バンドを脱退した経緯、その後に言われ続ける当時の失踪騒動などについて整理してみたいと思います。
GACKTは21歳でMALICE MIZERに加入。圧倒的なオーラと歌唱力で成功に貢献
GACKTさんがMALICE MIZERに正式に加入したのは1995年10月で、当時21歳でした。
元々、GACKTさんは京都でカインズフィールというバンドで活動しており、デモテープを聴いたMALICE MIZERのメンバーが興味を持ち、知人を介してGACKTさんをスカウト。
この頃のMALICE MIZERは前年1994年末にボーカル・Tetsu(テツ)が脱退し、活動を休止していた状況でした。
最初の顔合わせはKöziさんとMANAさんの2人で、警戒心の強いMANAさんはGACKTさんとほとんど口を聞かず。
一緒に入ったマズイラーメン屋でGACKTさんが「ご馳走様、おいしかったよ」と言ったことで人間性が認められ、そのまま当時流行っていたオウム真理教の施設を見に行くなどして意気投合し正式加入が決定。
GACKTさんは京都で水商売やカジノデューラーの仕事で裕福な生活をしていましたが、その全てを捨てて池袋に上京。
上京後は収入が少なく、池袋の公園付近で毎日のように女性に声を掛け、自分の夢を語り経済的支援をお願い、声を掛けた人数はザッと数千人はいたそう。
最終的には50人の女性に支えてもらい、音楽活動に集中することができました。
GACKTさんは現在でも彼女たちに感謝し、恩返しを続けているそうです。
ちなみに池袋の公園では曲作りなどもしており、GACKTファンにとっては聖地の1つとなっています。
MALICE MIZER加入後のGacktは先輩とトラブルばかり?
GACKTさんが加入したMALICE MIZERは1995年10月に活動を再開。
活動再開後に行われたキャパ1000人規模の「渋谷ON AIR WEST」でのライブはいきなりSOLDOUT、GACKT加入後初の音源『麗しき仮面の招待状』は業界でも話題となりました。
GACKTさんはメンバー最年少でしたが、加入当初から音楽理論や演出論を積極的に語り、怖気ない性格からもすぐに年上らと対等な関係になりました。
インディーズ時代から注目されていたMALICE MIZERは、すぐに雑誌でGACKTさんのヴィジュアルが公開され話題となりました。
ある先輩のV系バンドのメンバーが新ボーカルのGACKTさんを見て「なんだよ、あのGなんとか(ガクトと読めなかった)、ダセーな」と侮辱した発言。
この時にメイクアップしてないGACKTさんが側にいて、GACKTさんが先輩らに「ぐちゃぐちゃにして⚪︎すぞ」とキレてしまう事件がありました。
その他にも打ち上げなどで先輩バンドの理不尽には反抗的な態度で接し、時にマリスメンバーが間に入ったりGacktさんに説教したりしましたが、自分が間違っていなければ折れることがなかったそう。
売れる前から大物の片鱗を見せており、そんなGacktさんの強気の姿勢がマリスの改革をより大胆にしました。
短期間でメジャーデビュー、武道館、横浜アリーナと駆け上がる
1995年10月にGacktさんが加入して以降、MALICE MIZERは急速に成長を遂げました。
狭いライブハウスにMANAさんの自宅の家具などを運びヨーロピアンな世界観を構築し、メンバーは楽器を弾かずに舞踏会のように踊ったりと、当時の常識を覆す光景でした。
最初の頃は客席後方は爆笑するお客さんが大勢いたそうですが、マリスの魅力はすぐにに広がり、やがて熱狂的なファンで埋め尽くされました。
ライブは連日SOLDOUTで、インディーズにしてチケットが数十万単位で高額転売されるほどの人気を誇りました。
1997年7月には「ヴェル・エール 〜空白の瞬間の中で〜」でメジャーデビューを果たし、オリコン20位を記録。
あまりにも奇抜なバンドはメディアでも注目され、テレビ、雑誌、ラジオなどに出演し知名度を上げました。
リリースする楽曲も安定してオリコン上位に食い込むようになり、ヴィジュアル系ブームを牽引。
翌年1998年4月に武道館でのライブを成功させると、その僅か3ヶ月後には横浜アリーナでのライブも成功。※アリーナのチケットも秒殺
Gackt加入から3年足らずでアリーナ級のバンドに化けたのでした。
Gacktとメンバーの仲。manaとは不仲でKamiは親友?
MALICE MIZERはメインライターでリーダーのMANAさんとKöziさん、そしてフロントマンであるGacktさんが中心のバンドでした。
ライブではGacktさんとMANAさんの絡みが多く、またスチール写真などでも2人のツーショットは頻繁に見かけました。
バラエディ番組では喋れない設定のMANAさんが言葉を伝えるのに、一度Gacktさんに耳打ちをしてGacktさんが「〜と言ってます」と通訳するスタイルが定番。
世間的には名コンビと見られ、MALICE MIZER=Gackt &MANAというのが一般的なイメージでした。
そんな2人ですが、実は衝突を繰り返してきた歴史があります。
MANAさんはゴスロリの創始者であるなど絶対的なセンスを持ったクリエーターでしたが、Gacktさんは遠慮せず自己主張を貫き、結果として何度も衝突。
音楽のことだけでなく、ミステリアスな世界観を保ちたかったMANAさんとは対照に、Gacktさんはお喋りでMCやメディアでもすぐにユーモアに走るなど、価値観が合わなかったとも言われています。
Gacktさんは在籍時に「一度壊した絆だから、より強く結ばれた」と発言していましたが、それは主にMANAさんとの対立を指していたと思われます。
その一方で、ドラムのkamiさんとはとても仲良しでした。
2人の共通点といえば、お互いに途中加入組ということ、そしてGacktさんも前バンドで元ドラムだったことが挙げられます。
在籍時からGacktさんとkamiさんとの相性の良さは垣間見れており、kamiさんのそばにいる時のGacktさんはとてもリラックスした様子でした。
Gacktさんがkamiさんにドラムのアドバイスをして、kamiさんが素直に聞き入れていたという逸話も残っており、良い信頼関係が築けていたことが伺えます。
横浜アリーナのライブでは、Gacktさんのピアノとkamiさんのドラムのソロが盛り込まれていました。
Gacktの失踪とMALICE MIZER脱退までの経緯
Gacktさんが加入して短期間でアリーナ級のバンドに登り詰めたMALICE MIZER。
その後はメインライターではないGacktさんの作曲した『Le ciel』もヒットを記録するなど個性が花開き、更なる展望が期待されました。
これから東京ドームも視野に入れ、やがて世界進出も夢ではありませんでした。
そんな矢先にGacktさんが突然の失踪、そして脱退とMALICE MIZERの夢は突如終わりを告げました。
1998年7月 | 横浜アリーナ公演 |
1998年9月 | Gackt作曲の『Le ciel』発売 |
1998年11月 | 事務所関係者やメンバーらがGacktと連絡が取れず失踪 |
1998年12月 | Gackt不在のFOOL’S MATE「Vol.207」が発売されファン困惑。TVで失踪が報じられラジオなどから呼び掛け。ソロデビューの噂など出る。 |
1998年12月末 | Gacktが関係者と音信不通のまま単独で「SHOXX Vol.072」に登場し状況説明と心境を語る。 |
1999年1月 | MALICE MIZERがファンクラブでGacktの脱退を発表。メンバーが声明で「SHOXX Vol.072」でのGacktの説明を嘘とし喧嘩別れ。 |
1999年2月 | Gacktが各音楽誌に広告を打ち、生声メッセージの電話サービスが設け、MALICE MIZERの決断が悲しい、MALICE MIZERの魂は生き続ける、気持ちは作品で伝えていくと説明。 |
1999年3月 | MALICE MIZER側が「Vicious 1999年3月号」で公に向けてGackt脱退の詳細を改めて説明。(1月の声明はファンクラブのみ) |
1999年4月 | Gacktが「misérable」でソロデビュー。 |
1999年6月 | MALICE MIZER時代に一番の仲良しだったKamiが死去 |
1999年11月 | MALICE MIZERがボーカル不在で活動再開 |
2000年7月 | MALICE MIZERが3代目ボーカルにクラハを迎える |
2001年12月 | MALICE MIZERが活動休止を発表 |
2001年12月末 | Gacktが紅白歌合戦に初出場 |
Gackt側の主張。自身の脚光へのメンバーらの嫉妬や急に増えたお金の問題
- 1998年7月の横浜アリーナ公演後に休養したいというメンバーが出てきたが、Gacktは「休みたい人だけ休んで」「自分は休まずに突っ走りたい」と主張が食い違った。
- 売れてお金が入るようになってから、怠慢になったメンバーがいて不満だった。
- 1998年9月にリリースしたGackt作曲の『Le ciel』がヒットするとメンバーの態度が変わった
- Gacktと目を合わせることもできないというメンバーもいて、最後は無視され孤立、関係は修復できないほどボロボロだった。
- Gackt対4人となったが誰も仲介・フォローに入らなかった
- 「最後のミーティングで、メンバー全員と事務所の社長から『お前とはもうやれない』と言われた
- 『どうやってGacktのいるMALICEを終わらせるか』という話になると、「とりあえず作品を出せばあいつらは買う」と発言したメンバーがいて頭に来て話途中で部屋を出て行った
- 日頃から事務所の女社長はMANA側に付いており、最後はGackt対事務所&4人に割れた。
- 喧嘩直後にGacktに脱退の意向はなく、脱退は何も知らさずに唐突に決定された。
- 今でもMALICE MIZERは誇りであり、もう一度同じステージに立てるなら立ちたい。
MALICE MIZERの主張。Gacktが傲慢になりソロに欲を見せた?
- 横浜アリーナ公演の後に「充電期間を設けてコンセプトを固めよう」という意見があったが「休む」と言う人はおらず、Gacktの口から「休まずに突っ走りたい」なんて言葉は聞いていない。
- 失踪後もメンバーたちはGacktを待ち続けたが応答がなかった
- 売れて以降のGacktは傲慢になって人が変わった
- 目に余る部分はあるものの、Gacktの才能は認めており、ずっと我慢していたが限界が来た。
- 横浜アリーナ公演以降のコンセプトを作る段階から食い違いが色々あった。
- Gacktの言う「事務所との対立」みたいな言葉はどうしたら生まれてくるのか不思議
- いつの間にかGacktと話せなくなり、話し合いもできなくなり溝が深まった。
- 「MALICE MIZERを愛してる」と言いながら失踪や雑誌での発言が矛盾だらけ
MALICE MIZER側とGackt側の意見の食い違い
双方の意見に食い違いをまとめると、
- Gacktはお金が増えてメンバーが怠慢になったと言うが、メンバーらはGacktが傲慢になったと言う。
- Gacktは休もうとするメンバーがいたと言うが、メンバーらは充電期間を設けようとしか言ってない。
- Gacktは突如脱退が発表されたと言うが、メンバーらは「待っていた」と言う。
- Gacktは事務所と割れたようなことを言っていたが、メンバーはそんなことはなかったと言う。
受け取り方次第では、解釈が違っただけで両者共に正直な話をしてるように見えます。
Gacktさんが変わったのか、他メンバーが変わったのかという話でいえば、全員が変わったように感じますし、休養も充電期間も同じような意味だと思います。
共通してるのは、溝が深まってちゃんと話し合いができる状況ではなかったと言う部分です。
まともに対話もできない上に間に入る人間が弱かった点で、Gacktさんは「勝手に脱退ということになった」となりますし、メンバーらは「Gacktから音沙汰なく苦渋の決断」ともなります。
MALICE MIZERを信じる人とGacktを信じる人
社長を含むミーティングでの「お前とはやれない」や、メンバーの「出せばどうせファンは買う」発言の真偽は不明でするが、この発言が本当だとするとGacktさんの正当性が強くなります。
また、Gacktさんの脱退がファンクラブでアナウンされたのは1999年1月ですが、1998年12月に発売された「FOOL’S MATE Vol.207 1999年1月号」では、MALICE MIZERはGackt不在の4人のみで堂々と登場していました。
脱退が決まる前であったにも関わらず、この時点であたかもGacktという人物が最初から存在してないような書き方がされていたのです。
当時のファンは違和感を感じており、12月の時点ではバンドに戻る気持ちのあったGacktさんが疎外感を感じ腐ってしまうのは仕方なかったように思えます。
MALICE MIZERを支持するファンは、「Gacktは最初からMALICE MIZERを踏み台にしてソロになるつもりで裏切った」と見てる方が多いようです。
一方で、Gacktさんを支持する人は、「メンバーらがGacktの才能に脅威を感じてパワーバランスが崩れることを懸念して圧力をかけ、耐えられなくなった」と見てる印象です。
その他にも”事務所の女社長がMANAの彼女でGacktを無下にしていた”、”レコード会社が水面下でGacktのソロを計画し、反対した事務所やメンバーらが根回しした”というような噂も出回っていました。
現在までにMALICE MIZERファンがGacktに冷たい理由
Gacktさんが脱退して長い歳月が流れましたが、MALICE MIZERファンのGackt嫌いは健在です。
Gacktさんが脱退してすぐにドラムのKamiさんが死去、その後に新しいボーカルを迎え一時は持ち直すも結局は2001年には活動休止となりました。
その一方でGacktさんは1999年に出したデビューミニアルバム『Mizerable』がいきなりヒットを記録し、続くシングルも軒並み高評価。
MALICE MIZERがボーカルとドラム不在で苦戦を強いられる中、Gacktさんは順調にメディアに出演しキャリアアップ。
MALICE MIZERが活動休止を決断し傷心に浸っていた2001年、元凶だったGacktさんは「ANOTHER WORLD」をヒットさせ紅白歌合戦に初出場。
MALICE MIZERを踏み台にしてソロになったと信じている人からすると、その後のGacktさんの活躍は耐え難い現実でありました。
僅かな希望と言えば、脱退前後の「いつでもMALICE MIZERに戻れるように」との類の発言。
しかし、ソロ後のGacktさんの外見や楽曲はMALICE MIZERの世界観から大きくかけ離れ、復帰への気持ちも嘘のように見られました。
2003年に書籍「自白」の中で、再びMALICE MIZER復帰への気持ちを綴りましたが、MALICE MIZERファンは「建前だけだろ」と冷ややかな反応でした。
悲しすぎるGacktと親友・Kamiの友情
MALICE MIZER在籍時のGacktさんが一番仲良しだったドラムのKamiさん。
Gackt脱退時のKamiのコメントは、
自分の為だったら何をしてもいいのか、何を言ってもいいのか。
自分のことすら解ってない様な人と今まで一緒に手を組んで頑張ってきた自分が憎い。
MALICE MIZERをそしてメンバーを愛していると彼は言った。
この言葉の意味を本当に彼は知って言っているのであろうか。
因果応報というものは必ずある。
自分達の愛する音楽に、偽りや嘘をつきたくない。
と、メンバーの中で最もGacktさんに辛辣な言葉を投げかけていました。
Gacktさんがソロ活動を開始した矢先(1999年6月21日)にKamiさんはくも膜下出血で死去、最後まで仲直りはできず喧嘩別れという結末でした。
Gacktさんはマリス関係者と疎遠だった為、死の知らせはリアルタイムでは知らされず、Kamiの死去を知ったのは葬儀後のメディアでした。
Kamiさんの死を知ったGacktさんはたまらず地元の茨城を訪問し、過去の会話から実家近辺を特定し、近所をチャイムを鳴らして聞き込みし、日が暮れる頃になんとかKamiさんの実家を発見。
GacktさんはKamiさんのご両親に会うと、すぐに「ごめんなさい」と謝罪、両親はそんなGacktさんを暖かく迎え入れてくれたそうです。
翌年2000年にリリースしたアルバム「MARS」の4曲目に収録された「U+K」はKamiさんの「神村右京」のイニシャルを取った追悼曲で、以降はライブの定番曲として重宝されています。
Gacktさんは毎年Kamiさんへの墓参りを欠かさず行い、実家にも通い、その後は実の息子のように可愛がってもらっているそう。
しかし、MALICE MIZERファンのGacktさんへの風当たりは強いままです。
2008年にGacktさんがKamiさんの母校の卒業式に訪問し『野に咲く花のように』を歌唱。
歌手のGackt(年齢未公表)が、亡き親友のために立ち上がった。1日、茨城県・常陸太田市の県立佐竹高校の卒業式にサプライズで登場した。同校は、Gacktが以前、在籍したバンド「マリスミゼル」のドラマーで、99年に若くして亡くなったKamiさんの母校。Kamiさんが生前、愛用していたドラムセットをKamiさんの両親から託され、Gacktがドラムとともに歌声を親友の母校へ届けた。
ご両親の希望を受けて愛機のドラムセット寄贈がニュースになると、Gacktさんと両親の関係を知らないマリスファンから「なんで裏切り者のお前が良い格好するんだ」と大批判。
2015年には自身の遺書として書いた曲『P.S. I LOVE U』のリリースにあたり、毎年行っているKamiさんのお墓参りとご両親と過ごす様子が映像として流れると、この際にも「見捨てた人の死で曲の宣伝するな」と炎上。
ちなみにこの『P.S. I LOVE U』の「U」は2000年の「U+K」と同じく、Kamiさんの神村右京を意識したタイトルであり、Gacktファン側はその意図を汲んで良曲だと称えました。
この炎上した際の映像でGacktさんは、
やっぱり最後に喧嘩して離れたこと、今までずーっと引きずってる。
しょっちゅう喧嘩してたけどアイツは謝る奴じゃなかったから、僕が次の日に「悪かったな」って言ってアイツは照れながらごめんとは言わないんだよ。
でもずっとそれで成り立ってた筈だったのに。
最後に1番大きな喧嘩をした時に謝るってことお互いに出来なくてでも心配はずーっとしてて。
けど、彼が、その、亡くなった時に…なんであん時に謝れなかったんだろ…やっぱその想いってずーっと未だに残ってるよね。何年経っても綺麗になってくんない。
だから初めてお父さんとお母さんに会った時に「ほんとにごめんなさい」って、それがKamiに届くわけじゃないんだろうけど謝ってて。
そんな僕を受け入れてくれて応援してくれてる。それがほんとに自分にとってありがたいことでさ。
作品を出す時は罪滅ぼしっていう気持ちがあって。
何を言ってもどんなことがあっても取り戻せないからどうにもならないけど、せめて、ちょっとは届いたらいいなーって思う。
と、涙を堪えて話す一幕がありました。
この時のGACKTさんの様子を見て、許せる気持ちになったファンも少なからずいたようです。
その一方で、ここまでしてでも許せないとの声が圧倒的に多く、マリスファンのGACKTさんへの憎しみが想像以上に深いものだと知らしめる事例でもありました。
ちなみにお墓参りは現在も変わらずに続いており、今でも時よりニュースになってはマリスファンに叩かれるということを繰り返しています。
















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