いしだあゆみの若い頃の美貌と整形説。ミニマリストのホテル暮らし

2025年3月に76歳で亡くなった歌手で女優のいしだあゆみさん

晩年は母親役などで存在感を残しましたが、実は昭和を代表する美人さんでした。

今日はいしだあゆみさんの長崎県に生まれ大阪府で育ち、歌手としてブレイクした経歴と、若い頃の美しさについて回想してみたいと思います。

また、いしだあゆみさんの晩年の逸話や死因などについても触れてみたいと思います。

いしだあゆみの幼少期と学生時代。フィギュアの有望選手も中学で上京し歌手デビュー

いしだあゆみさんは1948年3月26日に長崎県佐世保市で誕生しました。

本名は”石田良子(よしこ)”で、デビュー当時は本名を使用していた時期もありました。

難産の末の出産で、生後2か月の時に肺炎にかかって生死の境を彷徨い、佐世保の米軍基地の病院でペニシリンを投与され助けられたそう。

5歳になった頃に父親の実家が大阪府の池田栄町商店街 “サカエマチ1番街”にある老舗喫茶店の「フジヤ」で、お店を継ぐ都合で大阪府に転居

いしだあゆみさんは4姉妹の次女で、姉妹全員が美女で商店街で有名でした。

いしだあゆみさんの実家の喫茶店「フジヤ」と、美人姉妹たちについては別記事で詳細を書いています。

長女 石田治子※フィギュア選手
次女 いしだあゆみ※女優
三女 石田三恵子※一般人
四女 石田由利子※歌手で芸名は”ゆりで”なかにし礼と結婚し現在は”中西由利子”

いしだあゆみさんはフィギュアの有望選手だった姉の影響で、5歳の頃からフィギュアスケートを習っています。

小学校は国立の共学校の大阪学芸大学附属池田小学校に進学するなど勉強も頑張っていました。

小学校6年生の時にフィギュアスケートのオール関西フィギュアスケート選手権で優勝。

小学生の頃は実家の「フジヤ」の常連で小中の同級生だった、日清食品の安藤社長にスケートを教えてあげたという逸話もあります。

小学生の頃のいしだあゆみさんはフィギュアだけでなく、児童劇団でも活動し「ともだち劇場」で同期生の中山千夏さんらとともに泉田行夫さんの指導を受けました。

本名 石田良子(よしこ)
芸名 いしだあゆみ
生年月日 1948年3月26日
没日 2025年3月11日(76歳)
出生地 長崎県佐世保市
出身地 大阪府池田市
身長 163センチ
血液型 B型
出身小学校 大阪学芸大学附属池田小学
出身中学 大阪学芸大学附属中学校→東京都私立上野学園中学校
出身高校 東京都私立上野学園高等学校

中学でフィギュアを辞めて演技と歌のレッスンのために上京

いしだあゆみさんは小学校を卒業すると、系列の大阪学芸大学附属中学校に内部進学。

中学1年の頃に芸能事務所からスカウトされると。5歳から続けていたフィギュアスケートを辞めています。

中学2年生だった1961年に舞台で子役デビューし、以降は子役として多数の作品に出演。

中学3年生の時に歌手を目指すために上京し、私立の女子校(当時)の上野学園中学校に転校。

上京後は作曲家のいずみたくさんに師事し、レッスンに打ち込みました。

中学生にして演技ができて歌も歌える逸材でした。

高校で”いしだあゆみ”名義でアイドル歌手デビュー

高校は、転校した中学の系列である私立の女子校(当時)の上野学園高校に内部進学。

高校時代のいしだあゆみさんは帰宅部で、中学時代と同じく芸能のレッスンに勤しみました。

中学の頃と変わらず作曲家のいずみたくさんに師事して歌のレッスンを続けました。

高校2年生だった1964年4月に、いしだあゆみ名義でファーストシングル「ネェ聞いてよママ」でアイドル歌手としてデビュー。

同年には森繫久彌さんが主演したテレビドラマ「七人の孫」で、女優デビューも果たします。

歌手と女優の仕事で忙しい傍ら、学業とも両立させて無事に高校を卒業しました。

若い頃のいしだあゆみの美しさ。彫刻のような綺麗さに当時では珍しい整形疑惑

いしだあゆみさんは高校卒業後、大学には進学せずに芸能活動に専念。

女優、歌手と多才な彼女でありましたが、「二足草鞋」「二兎を追う者、一兎も得ず」になってしまうことを懸念し、日本コロンビアに移籍し歌手業に専念。

なかなか売れ切ることができず、徐々に髪型をショートからロングヘアーに変えると「凄い美人のシンガーがいる」と話題に。

そして20歳の1968年に発売された「ブルー・ライト・ヨコハマ」が150万枚の超大ヒット

翌年もレコード売り上げ枚数の第3位を獲得して紅白歌合戦に出演しました。

その後も21歳の終わりにリリースした「あなたならどうする」もチャート2位を記録するなど歌手活動は順調で、1977年まで9年連続で紅白歌合戦に出場を果たしました。

しかし、9年の出場の中で楽曲が売れた証での紅白出場は最初の3年ほどで、1972年以降の出場は彼女のヴィジュアル良さからくるアイドル人気での抜擢でした。

70年世代の後半からは歌手としての仕事をセーブし、女優としてのキャリアを再スタート。

1977年の映画「青春の門」を皮切りに女優としてのキャリアを再スタート

29歳という現代でいう”アラサー”という時期での女優業の本格復活でしたが、20代前半の頃よりも洗練された美しさでスクリーンの前の観衆を圧倒しました。

いしだあゆみの美しさの全盛期は30代から?名俳優との共演を繰り返し幾度も主演女優賞を受賞

31歳の頃から女優業に重点を置き始めると、多くの作品で持ち前の美貌を生かしてヒロインを務めました。

32歳になった1980年にプレイボーイとして知られる萩原健一さんと結婚すると、その後は夫の数々のスキャンダルに巻き込まれ、ダメ男を捨てられない女のイメージが付き纏いました。

私生活での献身的な姿勢が芸の肥やしになり、女優としての迫力が増していきました。

1982年の34歳の頃に高倉健さん主演の映画「駅・STATION」で妻役を演じると、日本アカデミーの優秀助演女優賞を受賞。

1983年の35歳の頃に「男はつらいよ」に出演すると今後は主演女優賞を受賞。

1986年の38歳の頃に出演した「火宅の人」では、アラフォーの限界を突破したような色気を披露し、ブルーリボン賞、日本アカデミー主演女優賞など賞レースを総なめにしました。

可愛い気のあった20代に比べ、30代のいしだあゆみさんはシリアスなイメージが強く出ましたが、ダメな男を包み込む良い女として世の男性から支持されました。

40代では当時の美魔女のアイコン

50代からは素敵な母親の象徴のような存在。

やがて60代70代は優しくて綺麗なおばあちゃんとなり、全ての年代で”良い女”を網羅するという偉業を成し遂げました。

いしだあゆみの顔は10代の頃と違う?整形疑惑もあった

20代からそのまま70代まで理想的な歳の重ね方をした”いしだあゆみ”さん。

どの年代の彼女も、その年齢の女性に相応しい最高潮の魅力を誇りました。

しかし、巷では10代の頃と顔が違うとも言われ、整形疑惑が出ています。

確かに10代の歌手として細々と活動していた頃と、数年後の見た目とで印象が違います

ただ、整形をしていたというには大袈裟で、あくまで髪型とメイクと眉毛、シュッと痩せたことで変わっただけのようにも見えます。

↓ちなみに妹の石田ゆりさんはフルメイクになると、いしだあゆみさんと激似です。

元々、目元が濃い家系のようなので、アイメイクに力を入れると、それだけで随分と違って見えるようです。

いしだあゆみは半ホテル暮らし。死因とは関係なし。朝早起きして散歩のルーティン

萩原健一さんと離婚した後のいしだあゆみさんは、その後は再婚せず、亡くなる最後まで独身を貫きました。

離婚した理由などについては別記事で詳細を書いています。

別れた萩原健一さんとの間には子供も生まれていませんが、亡くなる最後に「人生に悔いなし」との言葉を残されています。

50代まで鎌倉に購入した一軒家で1人暮らしを続け、仕事には自分の車の運転で通いました。

60代からは都内のマンションでの生活を始めると、スターにしては狭めの1LDKのマンションにコップとお皿1つずつに、これまで大量に保持していた洋服・バッグ・アクセサリーを処分。

自分で衣装ケースを運ぶなどマネージャーら取り巻きに囲まれるのを嫌がり、地に足の着いた自立したライフスタイルを望みました

晩年のいしだあゆみは超ミニマリストだった?断捨離、早寝早起き、半ホテル暮らし

60代になり都内のマンションに引っ越した後は、母の遺品以外の自分の持ち物を徹底的に削ったそうです。

持ち物が少なかったということで、ホテル住まいだった時期もあったそうです。

シニア世代になってからはホテル暮らしがメインで、家事も自炊もせずに、まったりと自分のしたいことを続けていたそう。

20代の頃にホテル暮らしだった時期があったということで、歳を重ねても最低限の物で過ごす習慣が身についていたようです。

いしだあゆみさんの生活は午後7時に就寝し、午前2時起床。

午前4時に近所を1時間半散歩して、5時半ぐらいからホテルのプールで一泳ぎ。

泳ぎは得意ではないですが、それがかえって良い運動になるからだそうです。

プールサイドで朝を過ごすルーティンに関しては、40代の頃から行っていました。

プールの後に食事を済ませ、残りの時間はコンビニや喫茶店、ホテルのロビーで人間観察をしたり、美顔器やパックで肌のコンディションを整えるなどゆっくりとした時間を過ごしたそうです。

晩年に、

「ありのままでこぎれいなおばあちゃん役を演じるのが理想」

との発言をしていましたが、晩年はまさに本人の理想通りの女性でありました。

ストレスを溜めずにあるがままのシニア世代を堪能できた恩恵から、心が澄んだような眼差しの演技ができたことでしょう。

ちなみにいしだあゆみさんが住んでいたされるホテルは、特定されている範囲では”オークラ”などです。

ホテルを転々としていたかまではわかっていませんが、オークラがタワマンを隣接させた際にそこを借りて荷物だけを置いたのでは?など考察できます。

いしだあゆみの死因は甲状腺機能低下症。妹に看取られて東京都内の病院で死去

2025年3月11日4時48分に”いしだあゆみ”さんは都内の病院で死去。

死因は甲状腺機能低下症(こうじょうせんきのうていかしょう)でした。

いしだあゆみさんの死因をめぐっては、痩せすぎた体型や、極端なミニマムなライフスタイルが影響してるのでは?との憶測がありましたが、実際は全然関係ありません。

甲状腺機能低下症は、甲状腺ホルモン分泌量(活性)が不十分となる疾患で、代謝内分泌疾患の一つで、発症の原因は別にあったとされます。

最後は妹さんに看取られ、最後まで前向きな姿勢を持ち、とても勇敢で前向きな最後だったそうです。

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