紅白に最も多く出場する大御所歌手・石川さゆりさん。
実は若い頃にたくさんの苦難に遭遇し、それを乗り越えています。
過去の苦労が歌唱の説得力に恩恵として返ってきているのも、石川さゆりさんが支持される理由の1つです。
今日は石川さゆりさんが若い頃に乗り越えた、離婚やシングルマザーでの育児、巨額の借金問題などについて整理してみたいと思います。
石川さゆりの子供時代。中学で牛乳配達のバイトでレッスンに通い友達のオーディションに替え玉で参加し優勝
石川さゆりさんは1958年1月30日に熊本県飽託郡飽田村(現・熊本市南区)に生まれました。

市電の運転士をしていた父・智さんは正義感が強く、さゆりさんも尊敬していたそう。(2012年4月20日に肺癌で死去)
保育士だった母の市川様子さんは栄養関係の資格を持っており、給食の献立を考案するなど50年代にして社会で活躍するスーパーウーマンでした。

母が保育士だった影響から、幼い頃から童謡を沢山教えてもらっており、それが早くから歌手に目覚めるきっかけになったそう。

幼い頃から自宅の冷蔵庫には食料に溢れ、「石川食堂」とまで呼ばれていたそう。
母はさゆりさんが小学生の頃に祖父から「石川食料品店」を継ぎ、多忙になったことで、さゆりさんは朝から9歳年下の弟のオムツを替えるなど一家を支えました。

当時からルックスが素晴らしく、学校でも人気の女の子でした。
| 名前 | 石川さゆり |
| 生年月日 | 1958年1月30日 |
| 出身地 | 熊本県飽託郡飽田村(現・熊本市南区) |
| 出身小学校 | 飽田村立飽田東小学校 |
| 出身中学校 | 横浜市立城郷中学校3年 |
| 出身高校 | 東京都堀越高校 |
小学生にして歌のレッスンの為に牛乳配達
石川さゆりさんが歌手を目指そうと思ったきっかけは小学校1年生の時に母が好きという影響で見た、島倉千代子の歌謡ショーです。
島倉千代子さんのライブに感動し、歌手を志すようになり、家でも歌うようになりました。

自宅の前がバス停で、タバコや切符を売っていたそうですが、幼い彼女は普段はお婆ちゃんの膝の上に座り、時より売店の窓から「歌います!」と歌ってお客さんを喜ばせていたそうです。
小学校5年生まで飽田村立飽田東小学校に通っていましたが、その後に横浜市神奈川区に転居。

田舎を離れ活気ある横浜で刺激を受け、歌手への夢も膨らみます。
中学生になると親に「歌のお稽古に通いたい」とお願いするも、月謝は5000円と高額。
両親に、
「うちは普通のサラリーマン家庭だから、塾に通うお金は出してあげるけど、歌のお稽古に行かせるお金はない」
と言われてしまいます。
それでも諦めきれなかったさゆりさんは、中学生でも出来る牛乳配達のバイトを始め、自分でレッスン料を払い、レッスンを受けることになりました。

バイトでは、朝5時から起きて団地などの階段を上り下りするなど体力勝負。
時よりチラシや新聞の配達も任され、仲の良い肉屋などに「これお客さんに配っておいて」とズルしたこともあったそう。
友達の身代わりで出たオーディションに合格しテレビで優勝しデビュー
1972年、中学3年生になると、友人が夏休みにTV局のコンクール「ちびっ子歌謡大会」のオーディションに応募。
友人はハガキの返信が来てオーディションが決まるも、家の都合で断念。
石川さゆりさんはオーディションを断念した友人に「もったいないから私が行ってみる」と会場で名前を書き換えて、身代わりでオーディション受けたのです。

すると、オーディションに合格、「ちびっ子歌謡大会」に出場すると4週勝ち抜き優勝。
9月にはTV局から「10月からスタートするドラマの収録があるので出てください」と言われ、急遽デビューが決定。
歌手が本命だったということで、ドラマに出るということに抵抗があったそうですが、「いろんな意味で勉強になるから、まずはレギュラーでやりなさい」と言われ承諾。

半年間は石坂洋二郎さんの「光る海」に出演することになったのです。
そしてホリプロからスカウトされ、翌年の中学卒業直後である3月25日にデビューが決まりました。
いきなりコンサートを開催するなど、一気に飛躍したということです。
若い頃の石川さゆりの美しさは別格!結婚し歌手活動が束縛され離婚
石川さゆりさんは高校生になる直前の1973年3月25日、「かくれんぼ」で念願の歌手デビュー。

当時の石川さゆりさんは「光る海」に出演のイメージの方が強く、世間的には「珠子(作品での役名)が歌うのか」と反響。
私生活では芸能人が通う堀越高校に進学し、学生生活が注目されました。
ルックスに定評のあった石川さゆりさんは日本コロムビアからデビューしたということで、「コロムビア・プリンセス」のんキャッチフレーズでブレイクが期待されました。
しかし、時代は森昌子さん、山口百恵さん、桜田淳子さんの「花の中三トリオ」が注目され、石川さゆりさんの存在は影に隠れました。
デビュー同年に森昌子・山口百恵とのユニット「ホリプロ三人娘」が企画されイベントも開催されたが、短期間で頓挫するなど挫折。

その後に二葉百合子さんに弟子入りし、歌を基礎から学び直し、さらに歌に深みを持たせるため、民謡や日舞にも打ち込んで技術を身に着けました。
苦労の甲斐があってか、1977年の20歳の頃に「津軽海峡・冬景色」が大ヒット。

演歌を歌う元アイドルという斬新な売り出しが功を奏しました。
1977年は『第19回日本レコード大賞』で歌唱賞、『FNS歌謡祭』でグランプリなど数々の音楽賞を受賞し、今では常連である『第28回NHK紅白歌合戦』に念願の初出場を決めました。
24歳でマネージャー・馬場と結婚する兄家族との同居や姑問題、仕事の束縛で離婚。
石川さゆりさんは1977年に「津軽海峡・冬景色」でヒット後、同年、翌年以降にも「能登半島」「暖流」「沈丁花」とヒット曲が続き、国民的演歌歌手の仲間入りを果たしました。
1981年の24歳の頃に元マネージャーの馬場憲治と結婚。

結婚後も「波止場しぐれ」(1985年 第27回日本レコード大賞・最優秀歌唱賞)、「天城越え」(1986年 第28回日本レコード大賞・金賞)、「夫婦善哉」(1987年 第29回日本レコード大賞・金賞)、「滝の白糸」(1988年)と順調にヒット曲が続きキャリアアップ。
27歳になった1984年2月に長女・佐保里を出産。

しかし、32歳の1989年2月に離婚。
結婚後は夫の兄家族や姑との生活が仕事の負担になっていたようです。

実家には帰れず、仕事の宿泊さえも許されず、結婚生活は我慢の連続でした。
順調にヒット曲を量産したものの、地方を回ることができず、キャリアを伸ばし切ることが困難な状態だったのです。

離婚後は晴れて自由の身になり、コンサートで全国を周り、久々の地元・熊本に帰郷した際は雑誌に取り上げられるなどしました。
離婚後に巨額の借金を背負う。シングルマザーの身で億単位の借金を返済
石川さゆりさんは離婚した同年1989年にも「風の盆恋歌」がヒットし、第31回日本レコード大賞の最優秀歌唱賞を受賞するなど歌手活動は順調でした。
しかし、私生活では1989年から知人・「種子田益夫」(たねだ ますお)の仲介でカラオケボックス事業に進出するも、バブル崩壊の波に飲み込まれ経営不振。
石川さゆりさんは15店舗を買い取っていましたが、「種子田益夫」(たねだ ますお)に経営権を譲渡しました。
不良債権を売り払うも、石川さゆりさんは連帯保証人として名前が残っており、1999年に国民銀行が倒産。
そして、2001年に連帯保証をしていた石川らに、債権回収機構から多額の56億円という賠償請求を受けることになります。
石川さゆりさんは支払い命令の約2億円を返済する為に、世田谷の豪邸を売却するなど、大きな犠牲を払いました。
いくら売れっ子歌手である彼女であっても、シングルマザーの身で残りの借金約2億を返すのは簡単なことではありませんでした。
仕事と育児に奮闘し借金を返済し再び豪邸を建築
31歳で離婚してシングルマザーとなっていた石川さゆりさん。
その後に借金約2億を背負ったことで仕事も多忙を極めます。
娘の生活リズムを乱したくなく、仕事には連れ歩かず、人の手を借りての育児となりました。
石川さゆりさんは仕事で忙しい時も帰宅すると必ず娘との時間を作り向き合ったそう。
”なるべく娘の学校の行事に参加したい”との想いから、学校の年間スケジュールを早めにもらうい、行事優先で仕事を入れるなど工夫しました。
地方公演と行事が重なってしまった際は、さゆりさんとマネージャーだけ早めに東京に帰らせてもらって学校行事に参加したそう。
それでも紅白歌合戦の常連歌手として毎年のように年末を留守にしており、娘と年越しができたことはなく、妥協しなければいけない点も多くありました。

娘は高校1年生でイギリスに留学し、2年生で帰国するも日本の高校3年生には編入できず、同級生は3年生なのに娘は1年生と、娘も多く苦労しました。
現在は借金返済済み。再び世田谷区に母と娘の女3世代の二世帯住宅の豪邸で暮らす
30代にして約2億円の負債を抱えていた石川さゆりさん。
当時住んでいた世田谷区の豪邸を売り払うなど苦労もありましたが、その後に無事に返済。
そして、2012年には再び世田谷に5億円の豪邸を新築しました。
実母と娘家族の3世代で住む2世代住宅ということで、かなり広々とした豪邸のようです。
今でも料理が上手な母の手料理を食べたり、娘にご飯をご馳走になったり仲良く幸せに暮らしているようです。
石川さゆりさんは普通の主婦のような生活があるからこそ、それがパフォーマンスに生きると実感しているようです。



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