
岸谷香さんといえば、旧姓”奥居”としてプリンセスプリンセスのボーカルとして活躍された方です。
ガールズバンドのボーカリストとして最も売れた女性として知られており、現在までにプロデューサーとして活躍しています。
今の子にとって岸谷香さんは”プリンセスプリンセスの凄かった人”というイメージで止まっているかもしれませんが、実はヴィジュアルレベルは現在でも通用するぐらい凄まじかったのです。
今日は岸谷香さんの生い立ちや家族構成の他、若い頃の美しさについて回想してみたいと思います。
岸谷香の家族構成と生い立ち。長女で弟は歯科医。ピアノ少女からロックバンドに目覚める
岸谷香さんは広島県広島市生まれです。
生まれてすぐに東京都に引っ越し、育ちは東京都となっています。
名前 | 岸谷香(かおり)※旧姓”奥居” |
生年月日 | 1967年2月17日 |
出生地 | 広島県広島市 |
出身地 | 東京都渋谷区広尾 |
血液型 | O型 |
身長 | 157センチ |
出身小学校 | 東京都東京芸大附属世田谷小学校 |
出身中学校 | 東京都東京芸大附属世田谷中学校 |
出身高校 | 玉川聖学院高等部→明治大学付属中野高等学校定時制編(※中退) |
家族構成は父と母と弟で、岸谷香さんは長女です。
父は滋賀出身の方で、香さんが20歳の頃(1987年頃)に亡くなっています。
反抗期の余韻が残る時期で、最後まで大好きな状態でなかったことを後悔し、”父とは仲良くするべき”と学んだそうです。
弟は東京都中目黒の『奥居歯科』の院長を務めており、香さんは弟の歯医者で治療しているそうです。
母親の影響でピアノに興味を持ちショパンばかり聴く。5歳で習うも小学生挫折し鍵をかけられる
香さんの母は2003年の春頃に亡くなっています。
亡くなった3年後の2006年に、自身のブログで3年前に母が亡くなっていたことを告白していました。
「なんかさ、人は死ぬと、どこにいくんだろうね。
ママが夢の中で「いつも隣で見てるしなんでも知ってるわよ!ただ、はなしかけちゃダメって規則なのよ」
って言ってたけどホントかなぁ。。。」
と綴っていました。
香さんは幼少期から実家にあった母のピアノに興味を持ち、首が据わる頃には母親に教えてもらっていたそうです。
家では常にクラシックが流れ、香さんは特にショパンがお気に入りだったそうです。
5歳になる頃には先生を付けて本格的に習い始め、小学生になる頃には自分で曲を作って遊べるようになっていました。
広島の祖母曰く、香さんが小学生だった頃から彼女に音楽の才能があることに気づいていたそうです。
しかし、1つのことばかりを集中して鍛錬することができず、小学校高学年になる頃にはピアノを辞めたいと言い出し、レッスンもサボりがちになりました。
ついには本当にピアノを辞めてしまい、その際に母親は、
「唯一の取り柄なのにね、だったらもう辞めてしまいなさい」
「2度と弾かなくていい」
と母にピアノに鍵をして閉めら弾けなくなってしまったそう。
小学校の卒業式などでは伴奏を任されるなど完全にピアノから離れた訳ではありませんでしたが、母親は香さんのことを色々と心配して、あえて鍵を閉めたと思われ、母に大切に育てられていたことが伺えます。
ちなみに、香さんは小学3年生にして1人で飛行機に乗って広島にいる祖母のところまで行くなど、かなり自立した子供で、それも母親の教育の恩恵だったと思われます。
中学ではこっそりピアノを弾く。バンドのキーボードに誘われる
岸谷香さんはあ中学生になるとポップスなど流行りの音楽を聴き出すようになります。
学校で友達の前で最近の曲を耳コピして弾くと「凄い」と驚かれ、ピアノが自分の強みであることに気付き再熱。
家ではピアノに鍵をつけられてしまっており弾けませんが、母が留守の時や夜中にこっそり開けて弾いていたそうです。
小学生の頃にピアノを辞めていましたが、学校で伴奏を任され”ピアノの子”との認知があり系列校で先輩にも知られていた為、1年にして先輩にバンドのキーボードに誘われ初めてバンド活動を開始。
勉強は……ほとんどやっていなかった(笑)。中学の3年間はバンドばかりやっていました。別に不良だったわけではないですよ(笑)。バンドといっても、あくまで学校の中でやっていたことですから。ラッキーだったのは、私が行っていた学校は進学校ではあったので、楽器に興味のある子が極端に少なくて、楽器も音楽室も独占状態。
中学では学校内の色んなタイプのバンドで活動し、YMOのコピーやガールズバンドなど、卒業する頃には音楽の視野も広がっていました。
中学時代の香さんは音楽ばかりで勉強をせず、中学校には系列の東京学芸大学附属高校がありますが、内部進学の試験には失敗しています。
香さんは人生最初の失敗は高校の内部進学の失敗だと仰っており、長女で期待されている立場であったために家庭内に暗い雰囲気を持ち込んでしまったそうです。
後に音楽で大成功を収めていますが、中学時代に音楽ばかりにのめり込んでいた事を少し後悔しているようです。
岸谷香の学生時代。アイドルバンドに加入し人気者も高校は中退
内部進学に失敗した岸谷香さんは1943年創立のキリスト教系のミッションスクール”で私立の女子高・玉川聖学院に進学しました。
系列の高校に進学失敗して意気消沈だった香さんですが、叔父が”1校でも合格できたのだからおめでたい”と、お祝いに赤いグレコのプレベ(プレシジョン・ベース)を買ってもらっています。
香さんがなぜベースを買ってもらったかというと、ギターであればコードを押さえる必要がありますが、単音のベースなら何とかなると思ったからだそうです。
キリスト系の規則の厳しい高校だったということで、自由が好きな香さんは肌に合わず、早々に退学を考えたそうです。
そんな時期に「赤坂小町」のメンバー募集を見つけ、「これを理由に学校を辞めるかも?」とカルイ気持ちでオーディションに参加。
応募総数1400人の中から見事合格しますが、両親は赤坂小町への加入に反対し、毎日のように話し合い。
香さんは”もし自分が断った後に別のメンバーが入って成功することが耐えられない”と加入を諦められず。
最終的に親は「高校時代の部活動の延長だと思って許します」と承諾も、2、3年音楽活動をおこない結果が出なかったら大学に進学をするように言われました。
高校2年の時に赤坂小町のメンバーとして活動開始。高校は中退し定時制に編入するも再び退学
そして、香さんが高校2年生の16歳だった1983年に「赤坂小町」の活動がスタート。
香さんはギターボーカルという中心メンバーとしての参加でした。
結局、学校自体が芸能活動が禁止だったために中退することとなり、その後に明治大学付属中野高校の定時制に編入しました。
赤坂小町は、その後に18歳になった1985年にバンド名を「JULIAN MAMA(ジュリアン・ママ)」に改名するなど、なかなか思い通りの活動ができませんでした。
岸谷さんは出席日数が5、6日足りなかったことから、明治大学付属中野高校の定時制課程も中退しています。
PRINCESS PRINCESSに改名しブレイク。20代の岸谷香はアイドル級に可愛かった
岸谷香さんが高校生の頃から在籍していた赤坂小町は、1985年に「ジュリアンママ」に改名し、さらに1年後の1986年の19歳の頃にも「PRINCESS PRINCESS」と2度目の改名。
プリンセスプリンセスに改名後、1988年の21歳の頃にリリースした『MY WILL』がスポーツ用品店「ヴィクトリア」のCMソングに起用され注目。
そして、夜のヒットスタジオDELUXEに出演を果たしました。
赤坂小町時代のコテコテなアイドル風から一変して、エッジの効いたロックテイストな衣装メイクに切り替わりファンが急増しました。
1988年にリリースしたシングル『19 GROWING UP -ode to my buddy-』を皮切りに、『GO AWAY BOY』が資生堂のキャンペーンソング、『GET CRAZY!』が月9ドラマ『君が嘘をついた』の主題歌に起用されるなど知名度がアップ。
22歳になった1989年には女性だけのバンドとして初の武道館ライブを成功させました。
同年にバンドの代表曲ともなる「Daiamonds」が大ヒットし、日本有線大賞を受賞。
この年は紅白歌合戦からもオファーがくるなど、大きく飛躍しました。
香さんは国民的ガールズバンドのフロントマンということで、その人気はアイドルも顔負けでした。
女性からは「かっこいい」、男性からは「可愛い」と性別関係なしに大ウケしていました。
ヴィジュアルだけでなく、歌唱力や演奏力、作曲能力もまで評価されており、ガールズバンドのボーカリストとしては最高の逸材でありました。
27歳でソロデビューし29歳で解散後&結婚
日本を代表するガールズバンドのフロントマンとして人気者だった岸谷香さん。
27歳になった1994年にはシングル「奇跡の時」をリリースしソロデビューし、同年中にアルバムまでリリースしました。
翌1995年にはNHKホールでソロライブを開催。
ソロとしても流石の集客力を誇り、シンガーシングライターとしての存在感が一層強くなりました。
プリンセスプリンセスと掛け持ちをしながらもソロ活動を続けましたが、29歳になった1996年PRINCESS PRINCESSは解散。
そして、解散した同年に俳優の岸谷五郎さんと結婚。
以降は、活動を休止するなどしましたが、結婚した翌年1997年には復帰。
20代のうちにバンドとしてブレイクし、ソロとしても認められ、結婚までしたということで、香さんの若き日々はとても充実した素晴らしいい日々でありました。
岸谷香は30代、40代、50代まで美しい!
30代になってからは自身のソロ活動の他にもPUFFYなどアーティストへの楽曲提供などを積極的に行い、音楽家としても躍進。
私生活でも2人の子供に恵まれ、公私共に充実。
とても母親には見えない若々しさに、当時から「歳を取らない!」と驚かれていました。
アラサー、アラフォー、アラフィフになっても美貌は衰えず、復活したプリンセスプリンセスでは変わらないパフォーマンスを披露しファンを喜ばせました。