
桑田佳祐さんといえばサザンオールスターのフロントマンでソロとても活躍されています。
昭和、平成、令和といつの時代も”天才”と呼ばれた時代の寵児です。
今日はそんな桑田佳祐さんの生い立ちや家族、ルーツについて振り返ってみたいと思います。
意外な家族模様や、学生生活、若い頃の逸話などについても触れてみたいと思います。
桑田佳祐の家族構成と実家。父・久司と母・昌子。腹違いの姉・えりの影響
茅ヶ崎出身のイメージが強い桑田佳祐さん。
桑田佳祐さんは生まれ故郷の茅ヶ崎へ強い愛情を持っており、茅ヶ崎市民にとっても桑田佳祐さんは特別な存在であります。
2000年に行った『茅ヶ崎ライブ』では、民家が密集したエリアでありながらも近所住民が快諾し決行。
その20年後にも茅ヶ崎市民の支持の元で同じ場所でライブを行わせてもらうなど、茅ヶ崎とは相思相愛の関係であります。
桑田佳祐さんの学歴は神奈川の名門・鎌倉学園を卒業し青山学院大学に進学というエリートコース。
きっと”育ちが良いのでは?”と想像する方も多いと思いますが、実はそれなりの訳ありです。
名前 | 桑田佳祐 |
出身地 | 神奈川県茅ヶ崎市 |
生年月日 | 1956年2月26日 |
血液型 | A型 |
身長 | 170センチ |
出身小学校 | 茅ヶ崎小学校 |
出身中学 | 茅ヶ崎第一中学校 |
出身高校 | 鎌倉学園 |
出身大学 | 青山学院大学経済学部(除籍) |
桑田佳祐の家族構成。父・久司は満蒙開拓移民で母・昌子と再婚。姉・えり子は腹違いで他にも兄弟?
桑田佳祐さんの父親・久司さんは、満蒙開拓移民として満州鉄道に勤務した後、福岡県北九州市若松区に移り住みました。
福岡に移住した際、父・久司は複雑な関係の人に世話になっていたそうです。
その後、父・久司は福岡から神奈川県に転居し、湘南の地方新聞の記者を経て、茅ヶ崎の映画館「大黒館」の支配人となりました。
この頃に母の昌子さんと出会い結婚し、1956年2月26日に神奈川県茅ヶ崎市で桑田佳祐さんが誕生しました。
父は映画業界の斜陽化に伴い、今度は小田原の西洋料理店の雇われ支配人となりました。
その後は妻の昌子さんと夫婦二人でバーを経営するなど、父は桑田佳祐さんが大きくなるまでに様々な職業を転々としていたようです。
父親と母親が共働きで忙しく、両親の構ってもらう時間が少なかったそうですが、そんな桑田佳祐少年の面倒をみていたのが腹違いの4歳年上の義姉(1952年8月18日生まれ)の姉・えり子(岩本えり子)さんでした。
義姉の”えり子さん”は、父が桑田さんの母・昌子さんと出会う前に別の女性との間に生まれた子供で、桑田さんとは腹違いの姉でしたが、親に代わって幼い桑田さんに子守唄としてビートルズを歌ってあげるなど姉以上母未満の特別な存在でした。
えり子さんは「名曲”いとしのエリー”のモデルになった」「親代わりになって桑田を育てた」と言われていますが桑田佳祐さん本人は、
「そんなかいがいしい女ではない」
「めしなんて作ってもらったことない」
「僕は姉の手下でした」
と語り、あくまで良き姉であり、親代わりではなかったそうです。
「いとしのエリー」のモデル説も「何だか口を吐いて出てきたのが歌詞になった」と曖昧な発言をしています。(※ただの照れ隠しで実は真実との見方もされています。)
ちなみに姉曰く、実は父は別の中国人女性との間にも子供がいると唆されたことがあるそうです。
父・久司 | 満州から引き上げ福岡→神奈川 |
母・昌子 | バーを経営 |
姉・えり子 | 4歳年上の義姉 |
上にもう一人の兄弟? | 中国人女性との隠し子? |
仮に父の隠し子が本当だとしたら、腹違いの義兄姉がどこかにもう一人いるということになります。
義姉は1975年にモントレー大学に学び、通訳となり一般人と結婚し出産子育て。
1996年に帰国すると茅ヶ崎の海の景観を守る「はまけい」代表を務めるなど、茅ヶ崎市民やサザンファンにとっての馴染みの名物姉ちゃんでした。
1995年に乳癌を患い克服しましたが、2008年には膵臓がんを患い、同年10月19日に死去。
桑田佳祐さんは姉の病気を知ると国内外の名医を探し紹介するなどの全面的にサポートするなど献身的に支えました。
幼少期はおしゃれな父と人気者の母とビートルズ好きな姉の影響を受けた
桑田佳祐さんの家族は総じて明るくて社交的です。
母の昌子さんはバーを経営できるほど、話上手で美人でした。
桑田佳祐さんの父・久司さんはオシャレで新しもの好きだったそうです。
その影響で桑田家には当時はまだ珍しかったステレオがあったそうです。
父は世界中で大流行していたグレン・ミラー楽団などのスウィング・ジャズやペレス・プラード楽団などのマンボをLPレコードで聴いていたそうです。
姉のえり子さんもビートルズに夢中で、桑田佳祐さんは幼少期から子守歌代わりにビートルズの曲を聴かされていたほどです。
姉は「将来はジョンレノンと結婚する」と宣言しており、オノ・ヨーコと結婚した際は、茅ヶ崎の隣町・辻堂にあるオノヨーコさんの実家まで桑田さんを引き連れで一緒に石を投げるなど抗議運動を行なったそうです。
桑田佳祐さんにとって音楽は生まれた頃から潜在的なものであり、行動力のある家族に囲まれて活発に育ったということです。
桑田佳祐の学生時代と青学時代
桑田佳祐さんは地元の茅ヶ崎小学校、中学は茅ヶ崎市立第一中学校を経て鎌倉学園に進学しました。
小学生の頃には野球をやっていましたが、当時は今よりもおとなしい性格の子供でした。
中学生になっても野球を続け、ピッチャーとして活躍されました。
野球の他にも父に教わったボーリングにも熱中し、一時期はプロボーラーを意識していたこともあったそうです。
中学3年生の時にはじめてギターを購入し、この頃からビートルズなどのコピーを始めました。
桑田佳祐の初ステージは高校3年生の文化祭。ビートルズのコピーバンドをしながらプロボウラーを目指す
高校は鎌倉学園に進学し、高校でもボーリングと音楽に熱中しました。
帰宅部ではありましたが、ビートルズのコピーバンドを組んだり、ボブ・デュランの声質に憧れてウォッカでうがい。
高3の文化祭では音楽評論家である宮治淳一さんからの誘いで初めてのステージを経験するなど、音楽にのめり込みました。
また、中学からハマっていたボーリングへの情熱も相変わらずで、バイト先のボーリング場では空いてる時間に猛練習。
その結果、アマチュアの大会でスコア297を記録するなど、高校生の時点ではミュージシャンよりもプロボウラーの方が近かったそうです。
ただ、この頃にボウリングに限界を感じ、父親からの「趣味と仕事は一緒にするな」という金言もあり、プロになることは断念。
ボウリングの鬱憤を晴らすかのように洋楽の趣味に全振りし、その結果、高校時代の英語の成績は抜群に良かったそうです。
高校から大学に進む頃に、父親からは自衛隊への入隊やバーテンダーの勉強をすることを勧められており、この頃は音楽で飯を食おうという気はなかったようです。
桑田佳祐の大学時代。サークルでサザンのメンバーに出会い在学中にヒット
大学受験は現役で青山学院大学のほかにも明治学院大学にも合格し、青学の経済学部に進学。
大学では軽音楽部に入部し、大学非公式の音楽サークルの「AFT(青山フォークソング旅立ち)」にも所属しました。
「AFT」の同学年では共にサザンを結成する関口和之さんと出会い、その後に後輩に原由子さんと大森隆志さんも入っています。
学食がAFTのメンバーのたまり場で、午後の授業が終わると空いている教室を探してバンドの練習をしていました。
実家は裕福でありましたが、趣味であるボーリング場でアルバイトを続けていました。
給料が入るとすぐに友達に奢ってしまうため、常に金欠だったそうです。
大学2年生の時にAFTが分裂し、サークル「湘南ロックンロールセンター」を結成。
そして、「青学ドミノス」などバンド名を次々と変え、最終的には「サザンオールスターズ」となりました。
当初は趣味感覚でダラダラ続けメンバーの入れ替えもグダグダしていましたが、ある時からメンバーを立て替え真剣に活動をリスタート。
地元を中心に「良いライブをするバンドがいる」と話題になり、インディーズでも注目されるようになります。
大学生でありながらも、22歳だった1978年にシングル「勝手にシンドバッド」でメジャーデビューし、いきなりオリコン3位のヒット。
3枚目シングル「いとしのエリー」も大ヒットを記録すると、大学の単位習得が困難となり、1年留年した後に5年目の1978に学費滞納によって除籍となっています。
ちなみにサザンのメンバーで大学を卒業したのは原さんと関口さんだけです。
若い頃の桑田佳祐が可愛い?意外にもハンサム!
大学在学中に人気アーティストとなった桑田佳祐さん。
桑田さん特有の日本語を英語風に発音してロックに乗せるいわゆる「巻き舌唱法」が賛否両論を起こし、「目立ちたがり屋の芸人です」と発言し今までのロックバンドの違ったイメージ形成にするなど話題が絶えない新人として注目されました。
当初はコミックバンドとして認識されたり、一発屋で終わってしまう可能性を懸念する声もありましたが、順調に日本を代表するロックバンドの階段を登りました。
一時期は低迷期を挟みますが、14枚目シングル「チャコの海岸物語」で復活。
80年代から主流となったシンセサイザーでの作曲トレンドにも屈せず、その後も長寿バンドとして生き残りました。
斬新なライブパフォーマンスと、ひょうきんな桑田さんのキャラクターが大ウケし、若くして”天才”の名を欲しいままにしました。
ちなみに現在では、ごくごく当たり前となった歌番組での歌詞の字幕表示ですが、なんとそのきっかけは桑田佳祐さんだったようです。
ある歌番組で「勝手にシンドバッド」歌ったところ、桑田佳祐さんのあまりの早口に視聴者は聴き取ることができず「歌詞がわからない」と苦情が殺到し、その後から歌詞表記が当たり前になったそうです。
ベテランのロックスターになった後もルーツである地元や仲間を大切にする
桑田佳祐さんは現在までに生まれ故郷の茅ヶ崎や、若い頃に出会った仲間たちを大切にしています。
2006年に『ap bank fes '06』に出演した際には、
「自分の中だけの原風景があるんです。それが『ふるさと』でね。僕のふるさとは茅ヶ崎なんですよ。
そこの沼や池の匂い、そして街の肌触りとか、母のぬくもりがずっと心の中に残り続けていて。
そういう母性や匂いを作品にしていくこととか、そういう気持ちがエコロジーなんだと思うんです」
と、自分にとって茅ヶ崎というバックボーンに活動に大きな影響を与えている旨の発言をしています。
2007年には茅ヶ崎での少年時代の思い出を歌った楽曲「MY LITTLE HOME TOWN」を発表し、ライブでは「ここ(茅ヶ崎市)で生まれて良かったという実に他愛もない新曲を歌わせてください」とMCで語った上で歌唱しています。
桑田佳祐さんは1982年にサザンのメンバー・原由子さんと結婚。
その後に大スターとなりましたが、いまだに原さんとの結婚生活を続けており、業界の美女に騙されずに原さんを愛し続けています。
また、桑田さんはソロとしても成功し、自分でサザンの曲を作っているということでソロライブでもサザンの曲が使用でき、お金のことだけを考えると解散してソロ歌手になった方が得です。
しかし、桑田佳祐さんは「絶対に解散はない」「もったいない」と金銭的な都合よりも仲間との友情を優先しています。