
”いきものがかり”のギター・水野良樹さんといえば、同バンドでメインソングライターとして多くの名曲を世に送り出しました。
水野良樹さんが作詞作曲した代表曲は「YELL」「SAKURA」「ブルーバード」「じょいふる」「ありがとう」など。
同バンドではボーカルの吉岡聖恵さんが世間的に知られバンドの顔となっていますが、実は”ほぼ水野さんのバンド”なのです。
日本音楽史の中で最も過小評価されている”天才”とも言われています。
水野良樹さんが優秀なのは音楽だけでなく、学生時代からの勉学なども凄まじい。
今日は水野良樹さんの生い立ちや経歴、学生時代の逸話などを整理してみたいと思います。
水野良樹は静岡生まれ。家族と子供時代。野球とピアノを習いギターにハマる
”いきものがかり”といえば本厚木のイメージが強いですが、実はリーダーの水野良樹さんと山下さんは海老名市出身です。
また、意外にも水野良樹さんは1982年12月17日に母の実家のある静岡県浜松市で生まれています。
生まれた当時は3000グラムにも満たない体重で、家族を心配させましたが、その後はスクスクと育ちました。
静岡県で生まれた後は、5歳になるまでは父親の実家のある東京都昭島市で育っています。
子供の頃から巨人ファンなのは、幼少期を東京で過ごした影響だと思われます。
水野さんには兄弟はおらず、一人っ子として育てられました。
水野さんは子供の頃から目がクリッとしていて可愛らしく、現在の面影がモロにあります。
父親は楽観的なマイペースで、食卓にご飯が並ぶと、家族が揃って”いただきます”をする前に1人で完食して席を立っていたそうです。
母親は水野さん曰く「誠実」「つむじが2つある」と表現しており、調理師免許を持ち料理がとてもうまかったそうです。
水野さんは母親が作ってくるひじきの煮つけやジャガイモ料理が大好きで、よく作ってもらっていたそうです。
子供の頃にピアノを習っていたのは母親が子供の頃に習わせてもらえなかったことが影響。
裕福な家庭ではなかったために「よく習わせてくれたな」と感謝してるそうです。
水野良樹さんの名前「良樹」は祖父の良三さんが命名。
祖父はお酒が大好きで水野良樹さんの父の小学校の卒業式に一升瓶を持って現れるなどファンキーな方だったようで、良樹さんの祖母は『お酒を飲むとあんな感じだったけど、悪い奴じゃなかった』とのこと。
この祖母と祖父の関係から楽曲「コイスルオトメ」が生まれたそうです。
名前 | 水野良樹(よしき) |
ペンネーム | 清志まれ(きよし まれ) |
生年月日 | 1982年12月17日 |
出生地 | 静岡県浜松市 |
出身地 | 神奈川県海老名市 |
身長 | 168センチ |
血液型 | A型 |
出身小学校 | 海老名市立杉久保小学校 |
出身中学 | 海老名市立大谷中学校 |
出身高校 | 神奈川県立厚木高校 |
出身大学 | 明治大学政治経済学部→一橋大学社会学部 |
小学生で共同作業者の山下とギターに出会う。ピアノと野球とギターの弾き語りが好きな子供だった
水野さんは5歳まで東京都で育ち、小学1年生になる頃までに神奈川県海老名市に引っ越し、海老名市内の公立校・海老名市立杉久保小学校に入学しました。
共に”いきものがかり”を結成することになる山下穂尊さんとは小学校時代の同級生です。
小学1年生の時に水野さんと山下さんの2人がじゃんけんで負けて「生き物係り」をしていたことが、後のバンド名音「いきものがかり」の由来となっています。
出会った頃の2人は特別に仲良かったわけではありませんでした。
小学生の頃の水野さんは漫画や雑誌で秘密基地を作るようなグループに属して遊んでいそうです。
この頃には野球を始めており、プロ野球選手に憧れる普通の子供でした。
ギターとの出会いは小学生の頃の担任がピアノができない代わりにギターを代用して音楽の授業をし、その姿を見て水野さんは”かっこ良い”と思ったのがきっかけでした。
ギターを練習し、小学生にして弾き語りができるぐらいのスキルを習得しました。
小学6年生の卒業前に卒業生が出し物をして先生たちに感謝を表す催し物で、水野さんは購入したばかりのクラシックギターでMr.Childrenの「CROSS ROAD」を演奏し、友人や好きな女の子大好評でした。
奇しくも、後に共に”いきものがかり”として活動する吉岡聖恵さんが初めて買ったディスクも「CROSS ROAD」で、曲のタイトルのように2人の道を交差させた運命の1曲のように感じます。
中学時代は野球部で3年で部長になるも顧問と揉めて退部
水野良樹さんの出身中学校は、地元神奈川県海老名市内の公立校・海老名市立大谷中学校。
小学校で出会った山下穂尊さんとは中学でも同級生でした。
中学時代は野球が好きだったということで野球部に在籍していました。
中学3年の頃には野球部で部長を任されるなど、部内でも信頼されるポジションだったことが伺えます。
しかし、中学3年生の時に野球部を退部、その際に人間関係で色々と嫌なことがあったと回想しています。
「15歳の自分には大きなショックでした。元々それほど社交的なほうではなかったのですが、その後、人とのコミュニケーションがうまくできなくなるほどのダメージとなり、半年ほど誰とも話したくなくなってしまった時期がありました。」
水野さんは野球部顧問の先生と衝突したことで部活動を辞めたのです。
「好きなことさえ続けることができないのか」とダメージを受け、学校内の人付き合いにも影響が出てしまい、進学する高校は知り合いのいない東京の私立高校への進学を望みました。
ちなみに野球のことは今でも好きで、2010年にはバンドで巨人戦の始球式に登場したこともあります。
2018年には野球の番組に野球好きの著名人としてゲスト参戦していました。
子供の頃から巨人ファンで、特に川相選手の大ファンだったそうです。
番組で川相さんと共演した際はとても嬉しそうでした。
その他にも水野さんが甲子園優勝投手で元日ハムの斎藤佑樹さんのチャンネルで変化球を披露し注目されたり、音楽界屈指の野球好きとして知られます。
野球は中学で嫌な辞め方をしましたが、現在でも趣味として良い距離感で楽しんでるようです。
水野良樹は厚木高校時代に”いきものがかり”を結成。受験で休止も明治大学で浪人し一橋大学に再入学
都内の私立高校への受験に失敗した水野良樹さんは、地元・海老名から近くの県立・厚木高校に進学します。
厚木高校は1902年開校の伝統校で、古くから進学校として知られており、私立の受験に失敗したといっても充分な難関高に合格したということです。
小学校と中学校で同級生だった山下穂尊さんも同校に進学しました。
山下さんとは中高ではさほど仲良くありませんでしたが、高校では音楽を通じて意気投合しました。
1999年2月の17歳の頃にゆずの路上ライブに感化されて山下穂尊さんと一緒と2人組の「いきものがかり」を結成。※由来は2人が小一の頃に”生き物係”だった為
2人でコミニュティーセンターの駐車場で練習した1999年2月1日を”いきものがかり”の公式の結成日としています。
相模大野駅前を中心に活動し、女子高生を中心に集客に成功。
また、通っていた厚木高校では、立候補したバンドが文化祭のテーマソングを作曲し、一般生徒からの投票で1位を獲得できたバンドが文化祭の中庭で演奏できるという伝統があり水野さんも立候補。
水野さんが自身で作った楽曲も校内放送で流れ、多くの生徒の支持を得て過半数の投票をもらって堂々の優勝。
しかし、その後に先輩が「あれは決勝じゃなかった」と理不尽なイチャモンをつけて再投票が行われると敗退し、文化祭当時は羨ましそうに中庭を眺める羽目になったそう。
当時から上級生が嫌がらせをしたくなるほどに、水野さんは才能に溢れていたということです。
1999年の11月頃、水野さんと山下さんは男2人での活動に限界を感じ、他校の1学年下の吉岡聖恵さんを加入させ「いきものがかり」のオリジナルメンバーが集結。
吉岡聖恵さんが加入した経緯は、吉岡聖恵さんのは兄が水野さんと山下さんと同じ厚木高校の同級生で仲が良かった縁で、ノリで兄が呼び出し飛び入りで加入したという流れでした。
水野さんは”いきものがかり”以外で、も『Groovy★Jack(グルービージャック)』というバンドも掛け持ちし、2000年の第2回ヨコハマハイスクールミュージックフェスティバルに参加し準決勝まで勝ち進みました。
バンドを結成から高校卒業までにオリジナル曲を4曲制作しており、このうちの3曲が後に改良をされて「いきものがかり」の楽曲としてリリースされています。
神奈川県の元厚木駅や海老名駅を中心に路上ライブも行い、地味に同じ曜日の同じ時間に活動していたことで、女子高生を中心に固定のファンを獲得していました。
当時はメンバーの誰もがプロのミュージシャンになろうと思っておらず、2000年の高校3年生の9月に水野さんと山下さんの大学受験を理由に「いきものがかり」は解散しています。
明治大学に合格も仮面浪人して一橋大学に合格。社会学者の宮台真司の影響
水野良樹さんは明治大学に現役合格し進学していますが、明治大学は本当の志望大学ではなく、その後に仮面浪人をして一橋大学に入り直しています。
水野さんは社会学者の宮台真司さんが出演したテレビを拝見し、社会学に興味が出たことで社会学部のある大学を調べ、一橋大学の社会学部を見つけ志望するようになったそうです。
しかし、現役高校生だった頃の学力では一橋大学に入学することが難しく、自分のレベルにあった明治大学に進学していたのです。
「もともとものごとを考えることが好きで、なんとなく社会学を学びたいと思っていました。関東の首都圏の国立で社会学部があるのは一橋くらい。正直、自分の学力とはかけ離れた目標でした」
水野さんは”一生懸命頑張ったことがないまま大人になることはよくない”との思いもあり、一度は志望した大学だったことから、”やっぱり頑張ってみたい”と再受験を決めたのです。
親からは大学に入り直す余裕はないと言われましたが、水野さんは負けじと親にプレゼン。
「正論だとは思いつつ、諦めきれなかった。そこで水野さんは、この後3年間私立大に通い続けた場合にかかる学費と、4年間国立大に行った場合の学費を概算。国立大のほうが安いことを両親にプレゼンした。」
そのまま私立大学に通い続ける学費と、国立に入り直した際の学費の差額などを割り出して説明し、仮面浪人という形で受験費用や予備校費用はバイトして自身で払うと交渉。
その結果、親からの承認を得て仮面浪人することになり、アルバイトと大学、予備校を掛け持ちして、かなり忙しい日々を送りながら無事に一橋大学に合格を果たしたのです。
仮面浪人時代は朝4時から9時まで海老名サービスエリアでバイトし、大学へは二限目から出席、そして大学の後は予備校で勉強し、帰宅後も寝るまで勉強という生活。
お金の都合で予備校で受けれる授業は英語と現代文だけで、親からもらった食費の500円も100円のハンバーガー1個で済ませ残額を参考書代に充てるなど苦労したそうです。
水野さんは仮面浪人時代だったことを回想し、音楽で売れ始めた頃よりもハードな毎日だったと語っています。
大学1年で”いきものがかり”を再結成させ一橋大学卒業後にメジャーデビュー
明治大学に入学するも、仮面浪人して一橋大学に再入学した水野良樹さん。
山下さんも浪人の末に法政大学法学部に進学しており、一緒に公民館で勉強してる時から「また”いきものがかり”をやろうと」と話していたそうです。
水野さんが一橋大学、山下さんが法政大学に入学した1年目に、早速”いきものがかり”を再始動しようと動き始めます。
しかし、ボーカルの吉岡聖恵さんが短大で歌唱が通用せず自信をなくしており、再結成には乗り気ではなく、水野さんが1年かけても説得できませんでした。
その後に山下さんが「ダメなら辞めたら良い」と気楽に説得すると、ものの1時間くらいで吉岡さんは首を縦に振って再結成が決定。
そして、水野さんが大学2年生になった2003年に再び吉岡聖恵さんと山下穂尊さんが再集結して”いきものがかり”は再度動き出します。
再結成した当初は、高校生の頃と同じように路上ライブを行っていましたが、2003年に本厚木にあるライブハウス”サンダースネイク”で手売りで売った300人を前にライブを決行。
このサンダースネイクでの300人ライブを、その後にマネージャーになる人物がたまたま観ていたことで気に入られ、再結成した年にいきなりインディーズデビューを飾っています。
インディーズ活動が忙しくても一橋大学を卒業!狩野英孝にめげずブレイク
水野さんは大学時代に再び音楽活動を開始し、学校とバンド、そしてバイトの掛け持ちで大忙しでした。
インディーズ時代は新百合ヶ丘駅で現在は芸人で活躍する狩野英孝さん率いる”セントラルステーション”に太刀打ちできずに場所を移動するなど、順風満帆ではありませんでした。
路上では酔っ払いに絡まれても音を消して上手く対処するなど、かなり泥臭い音楽活動を行なっていました。
ライブで長距離の移動になると水野さんがハンドルを握り、お金のないメンバーらは1000円ずつガソリンを入れていましたが、3人で割って誰が100円多めに払うかじゃんけんしていたそうです。
色々と苦労もありましたが、無事に一橋大学を卒業。
そして、大学を卒業した2006年に「いきものがかり」はメジャーデビューを飾っています。