森田童子の父・中西正一は毒親?弟は”なかにし礼”。倒産、借金、金銭無心。

森田童子さんといえば、死後に叔父である”なかにし礼”さんの著書「血の歌」で本名や生い立ちが明かされ話題となりました。

叔父である”なかにし礼”さんは、森田童子さんの父・中西正一さんとは15歳も年の離れた兄弟で、学生時代まで兄の正一氏に養ってもらっていた関係です。

今日は、なかにし礼さんが著書「血の歌」や「兄弟」の中で明かした、彼の兄で森田童子さんの父である中西正一さんの壮絶な生涯についてまとめてみたいと思います。

森田童子さんのファンからすると、”早く父親と離れてよかった”と毒親のイメージが先行してると思いますが、実際に正一さんが立たされていた立場などを考慮すると仕方なかった部分もあるのです。

中西正一の経歴。立教大学時代に学徒出陣。戦時中に父を亡くし母と妻子・弟を養う

中西正一は中西家の長男として生まれました。

父の中西政太郎氏旧満州(現中国東北部)牡丹江で、酒造会社経営者として成功しており、裕福な家庭に育ちました。

母の”よき”さんは正一が15歳の頃に末っ子の”禮三(れいぞう)”を出産。

この弟が後に”なかにし礼”として売れっ子作詞家となりました。

中西正一は学業優秀で、立教大学に進学。

その後に弟の”なかにし礼”も立教大学に進学しているということで、遺伝的に優秀だったことが伺えます。

第二次世界大戦が始まると、父は強制労働の末に戦死し、正一も学徒出陣することとなります。

戦後、残された母と弟、そして自分の妻子と6名の家族を22歳の若さで養わないといけなくなります。

名前 中西正一
生年月日 1923年
出身地 北海道
著名な家族 弟(なかにし礼)。次女(森田童子)
出身大学 立教大学

一時はニシン事業で成功も転落。落ちぶれた時期に美乃生(森田童子)が生まれる

正一は23歳の頃に家族を養うために家族と住む実家を担保にニシン事業を始め、これが成功。

しかし、秋田県能代へ船で運べば3倍儲かると知ると、荒波の中ニシンを運ぼうとすると失敗し実家を失うことになります。

担保にしていた実家を失うと、正一は三沢で米軍の通訳、そして母と”なかにし礼”と妻子は青森と家族バラバラで住むことを決断します。

母が病気になったことで正一も青森の家族に合流し、一家は再び一緒に暮らすことになり、次女の美乃生(みのぶ)が誕生します。(後のフォークシンガー・”森田童子”)

青森にいた期間、正一は母がやっていたいた古着屋を継ぐも潰し、バーの経営も失敗

大学時代の友人に東京の営業職を紹介してもらい、一家で上京することとなります。

一家で東京都に移り住むも仕事が定着せず。倒産の嵐で生活は困窮

正一は友人に紹介してもらった仕事の為に家族全員で上京。

(森田童子は0歳のうちに青森から東京都に移住、その影響で出身地に”青森説”と”東京説”が存在した)

しかし、紹介してもらった仕事はわずか3ヶ月で辞めてしまいます。

その後、正一は”一山当てようとする人”と組んで沢山の事業に挑みますが、どれも失敗し借金が膨らみます。

正一が関わった事業はスポイトホースの製造会社、化粧品会社、廃棄物処理、ミミズの養殖、商事会社、貿易会社などです。

家族の生活は困窮し、弟のなかにし礼さんの学費を滞納し、電車の定期が払えずに学校を休むこともあったそうです。

母は自分の金歯をお金に換えてくれと差し出すなど悲惨な状況が続きました。

次女の森田童子さんも、なかにし礼さんの「兄弟」曰く、入学式や遠足や学校のイベントに良い思い出がないのではないか?というほど父の借金の皺寄せを受けていたようです。

作詞家として成功した弟”なかにし礼”の実印を利用。次女の森田童子の印税も狙っていた?

弟のなかにし礼さんは高校の授業料が滞ったり通学定期が買えずに休む日もあり、一時期は”自分を様子に出して欲しい”とお願いするほどでした。

それでも、奨学金を申請し授業料は何とか確保。

なかにし礼さんは高校を卒業すると神田の炭屋や代々木のレストランで住み込みで働き、すぐに正一の元を離れました。

なかにし礼さんは立教大学に進学した後は五反田の貧しいアパートで暮し自立。

当時のアルバイト先のシャンソン喫茶で一日中聴かされたシャンソンが好きになり、歌手のアテネ・フランセでフランス語を勉強し、シャンソンの訳詩を始めました。

なかにし礼さんの訳詩はすぐに評判になり、訳料1曲500円が2000円にまで上がるなど、音楽で飯を食うことに現実味が見えてきました。

シャンソンで知り合った女性と結婚すると、新婚旅行で偶然知り合った石原裕次郎さんに”訳詩ではなく流行歌を書け”と勧められ作詞をスタート

作詞家になるとすぐに売れっ子となり、印税で中野に病気の母、正一家族5人(姉、童子、弟)、礼、弟子4人と中西家は11人で同居生活を再開。

同居を再開させた同年の1968年は「天使の誘惑」で日本レコード大賞を受賞し、または作詞した曲が紅白で3曲も歌われるなど日本を代表する作詞家として名を轟かせました。

この時、森田童子さんは15歳の高校1年生で学生運動で学業に身が入らず、なかにし礼さんは彼女にギターやピアノ、作詞などについて教え、森田童子さんはすぐに教えを吸収していきました。

また、なかにし礼が仕事の関係で付き合いがあった同い年のイラストレーター・前田亜土さんも自宅に来ることがあり、この時期に森田童子さんと出会い交際に発展しています。

以降の正一は弟の収入をアテにするようになり、身内に借金を被せるなどやりたい放題やります。

弟”なかにし礼”と同居再開後、弟の実印を持ち出すなどやりたい放題

正一は弟”なかにし礼”との同居が再開されると企業と廃業を繰り返しました。

お金がありそうな人に「一緒に仕事をやろう」と持ち出し、工面してもらったお金で起業しては会社を潰すということが続きました。

同居が始まって3年後の1971年10月に”なかにし礼”が石田ゆり(由利子)と再婚することとなると、その財産を相続できなくなると直ぐに手を打ち6千万円の生命保険に本人に無断で加入。

弟の実印を持ち出して自分の借金の連帯保証人にするなど、家族からの信頼を失うような行為を行いました

同時期、正一は倒産し借金の夜逃げ同然で礼の家を出て行きました。

混乱状況の中、次女の森田童子は高校を中退しすでに音楽活動を始めており、交際していた前田亜土さんと同棲を始めました。

正一は弟に6億の借金を背負わせて失踪。なかにし礼の印税は没収され子供とは別居

1973年、正一はゴルフ場開発の儲け話に乗ると、またもや弟の実印を勝手に持ち出して会社を作りました。

新聞広告で会員を募集したが無認可事業で失敗し負債総額4億円。

当時にして自分の借金2億円を被せて負債の合計は6億円にもなり、それを全て弟の礼に被せて失踪

弟の”なかにし礼”の会社は正一の借金の皺寄せからついに倒産。

なかにし礼は借金返済のために4年しか住んでいない中野の自宅、北青山のビル、南青山のビルなど全財産を処分しましたが、借金の残額は3億5千万円残りました。

その後、作詞家としての印税収入は、債権者会議で今後も含め全て法律事務所に送金することになり生活に困窮し息子を大阪の実家に預けるなどのん対応に追われました。

当時のなかにし礼はメディアに多く出演し、借金を返すためにハードスケジュールをこなすしかありませんでした。

次女・森田童子の曲が”高校教師”でヒットするとすぐに電話

正一の次女の森田童子は1974年秋に21歳でレコードデビュー。

長く売れないフォークシンガーとして活動をしていましたが、次第にカルト的な人気を誇るようになります。

森田童子は歌手活動の中で本名や出身地は明かさず、常にサングラスをつけて素顔を非公開にしました。

今となっては、身を隠したがった理由には父・晴一の存在も影響していたことが伺えます。

森田童子は大ヒットを記録することもなく引退しますが、引退後の1993年に楽曲「ぼくらの失敗」が人気ドラマ「高校教師」の主題歌に起用されヒット

正一は次女の曲がヒットしたことを知ると、すぐに次女に電話をかけてお金を無心しようとしたそうです。

当時、森田童子は「印税ならまだ入ってないわよ」と答え、正一は絶句。

印税が入るであろう時期である翌年には、旦那の前田亜土を代表に、森田童子の著作権を管理する海底劇場を設立するなど、お金の無心を懸念してるかのような動きをしていました

それから3年後の1996年に正一は2億の借金を残して死去。

正一が亡くなった後は、嫁は死後に絶縁し、子供たちも借金を背負わないために遺産破棄。

結局、散々周囲にお金のことで迷惑をかけた挙句、とても寂しい最期を迎えたのでした。

森田童子の父・中西正一の壮絶な人生年表

1923年 生誕。実家は酒造業で成功しており裕福な家庭に育つ。
1938年 弟の中西禮三(なかにし礼)が満洲国の牡丹江省牡丹江市(現在の中華人民共和国黒竜江省)で生まれる
1941年 立教大学入学
1943年10月 学徒出陣。
1945年(終戦まで) 満州にいた母と弟”なかにし礼”が帰国し北海道小樽市で暮らす。父は戦士し正一は22歳にして一家を背負う立場になる。
1947年 正一は実家を担保に借金しニシン事業で成功(※最初で最後の成功)
1948年〜 正一はニシンを秋田県能代へ船で運べば3倍儲かると欲を出すも日本海の荒波に飲まれ魚を失い失敗。実家を失う
1948年〜 実家を失ったため、正一は三沢で米軍の通訳、母と妻と長女は青森で別々に暮らすことになる。
1952年 母が脳溢血で倒れ正一が青森に戻り、再び家族と共に暮らす。同年に次女・美乃生(森田童子)が生まれる。
1952年 青森に戻った正一は母の古着屋を継ぐか失敗、続いてバーも経営するが失敗
1953年 大学の同級生に営業の仕事を紹介され、家族で東京都品川区大井町(3部屋の借家)に転居するも仕事を3ヶ月で辞める。
1953年〜 スポイトホースの製造会社、化粧品会社、廃棄物処理、ミミズの養殖、商事会社、貿易会社と次々に会社を作るもいずれも失敗する。
1957年 弟・なかにし礼が高校を卒業して家を出て一人暮らしを始める。
1963年 弟・なかにし礼がシャンソン喫茶で知り合った女性と結婚
1964年 弟・なかにし礼が菅原洋一「 I Really Don't Want to Know 」の訳詩を依頼され、『知りたくないの』が大ヒットし売れっ子作詞家になっていく。
1968年 弟・なかにし礼が作詞家として成功し、印税で中野に110坪の家を新築。正一家族5人(森田童子の姉と弟を含む)、母、弟子達と同居
1969年 弟・なかにし礼が詩集「エメラルドの伝説(For Ladies 22)」を出版しイラストを前田亜土が担当。この頃、森田童子(美乃生)と前田亜土が出会う。
1970年 次女の美乃生が歌手活動をスタート
1971年 前田亜土を社長に、中西正一となかにし礼を取締役に芸能事務所「アド・プロモーション」を設立。
1971年 弟・なかにし礼が石田ゆりと再婚、その際、正一は倒産し借金の夜逃げ同然で礼の家を出て行く。この頃に森田童子(美乃生)と前田亜士と同棲スタート。
1973年 ゴルフ場開発の儲け話に乗り弟の実印を持ち出して会社を作るも無認可事業で失敗。負債総額4億円。自分の借金2億円を被せて6億円を残して失踪し弟・なかにし礼が背負う
1974年9月 アド・プロモーションは所属タレントの風吹ジュンの二重契約問題でトラブルになり「誘拐事件」とニュースになるも録音テープ等で否定され事件化はされず。この頃までに森田童子(美乃生)と前田亜土は結婚
1977年 母親が77歳で死去
1980年 中西正一と弟・なかにし礼”が正式に絶縁。同年に中西正一が作った借金を完済。
1982年 義息子・前田亜土と森田童子(美乃生)は国分寺に共有名義で1戸建てを購入。中西正一に預金を狙われることを恐れあえての高額金利でのローンにした?
1993年 森田童子(美乃生)の「ぼくたちの失敗」が高校教師に起用されヒット。すぐに中西正一から電話が来るが「まだ印税入ってないわよ」と冷たく言われ絶句
1994年4月 森田童子(美乃生)の著作権を管理する海底劇場を設立。代表は夫の前田亜土。正一から狙われないため?
1996年10月 中西正一氏が2億の借金を残したまま72歳で死去
1997年3月 正一と妻が死後離縁。残された借金を遺族(妻、長女、次女、長男)が背負わないために遺産相続放棄。なかにし礼も当然のように相続放棄。
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