
小川知子さんといえば、昭和の時代に子役、歌手、女優として成功した代表的スターです。
20代の頃は、まだ日本では馴染みではなかったミニスカートをいち早く取り入れ大衆化させるなど、ファッション的にも貢献された方です。
これまでに2度の結婚や、恋人との悲しい別れなどがありました。
今日は小川知子さんの経歴や功績を簡潔に振り返るのと共に、これまでの2度の結婚や、死別した恋人とのことについて書いてみたいと思います。
小川知子の経歴。子役として活躍し10代にして司会、紅白出場。ミニスカートを日本で初めて流行らす
小川知子さんは1949年1月26日に広島県広島市に生まれ、3歳の頃に東京都の北区に引っ越し。
北区立王子小学校に通い、モダンバレエを習い、小学5年生の頃には東宝児童劇団に入りました。
1960年の11歳の頃にドラマ『ママちょっと来て』でデビューし、以降は子役として数々の作品に出演しました。
中学は私立の女子校・精華学園女子中学校に通い、中学生にして在学中からバラエティ番組『九ちゃん!』の司会を担当。
16歳になった1965年の精華学園女子高等学校在学中に東映に入社し、その頃にも久保浩さんと共にTBS『夢のスタジオ』の司会を担当し、映画「悪魔のようなすてきなやつ」で映画デビュー。
17歳になった1966年には久保浩さん共にリズム歌謡「恋旅行」をリリースし歌手デビュー。
その他、高校生のうちに多数の有名作に出演し新人賞も受賞しました。
名前 | 小川知子(ともこ) |
生年月日 | 1949年1月26日 |
出生地 | 広島県広島市 |
出身地 | 東京都北区 |
出身小学校 | 北区立王子小学校 |
出身中学校 | 精華学園女子中学校 |
出身高校 | 精華学園女子高等学校 |
小川知子が日本にミニスカートを流行らせる。若くしてメディアから叩かれる
小川知子さんは1965年に東映に入社後、数々の作品に出演し話題となりました。
しかし、未成年にして青春物より色っぽい作品ばかり出されることに反抗し、僅か2年で東映との契約を解除。
翌年の1968年に「ゆうべの秘密」で東芝からソロデビューし、「女優より歌手がしたかっただけでは?」とメディアから反感を買いました。
また、ソロデビューした同年には兄と一緒に20日間の休暇を取って海外旅行に行くなど、当時の芸能人としては異例のライフスタイルを見せ、賛否両論を見せました。
そんな中、60年代にして初めてミニスカートを流行らせるなど、若者にとってはカリスマ的存在でもありました。
幼少期からモダンバレエをやっていた彼女にとって丈の短いスカートは、子供の頃から履いてる普通の衣服であり、特に特別な意識などはなかったそうです。
ソロ歌手デビューした初年度から紅白歌合戦に出場し、結局1968年から1971年まで3年連続で出場を果たしました。
1970年代に入っても人気は衰えず、多くの映画やドラマで主役を好演し、日本を代表する女優のひとりとなりました。
小川知子の結婚歴。俳優の林与一と結婚&離婚し伊藤順二と再婚
小川知子さんはこれまでに2回結婚しています。
最初の結婚は1977年の27歳の頃で、相手は俳優の林与一さんです。
林与一さんと離婚すると、1988年の38歳の頃に美術評論家の伊東順二さんと再婚され、現在まで婚姻関係は続いています。
相手 | 時期 | |
1人目 | 林与一(俳優) | 1977年〜1983年 |
2人目 | 伊東順二(美術評論家) | 1988年〜 |
映画で共演した林与一と結婚。子供が生まれる前に離婚。別れた後に谷村新司と胸に手を入れる演出で噂に!
小川知子は1977年の27歳の頃に、7歳年上の俳優の林与一と結婚。
林与一さんは歌舞伎役者として活動し、俳優としてドラマなどに出演していた方です。
名前 | 林与一(はやし よいち) |
生年月日 | 1942年2月14日 |
出身地 | 大阪府 |
職業 | 歌舞伎役者。俳優。タレント。 |
2人の馴れ初めは1965年に共演した映画「新蛇姫様 お島千太郎」です。
この作品以外にもドラマ「座頭市」でも共演し親交を深め、交際に発展しました。
結婚した当初は小川さんの家事全般がダメな部分が可愛いとしてラブラブで、夫婦揃ってメディアに登場するなどおしどり夫婦として知られました。
結婚後、お互いに人気絶頂だったということか、子供は生まれず。
結婚して6年後の1983年に離婚しています。
離婚理由に関しても、互いに忙しさもあり、あまり夫婦の時間が取れなかったのではないかと思われます。
ちなみに林さんと離婚した翌年の1984年には歌手・谷村新司さんと「忘れていいの-愛の幕切れ-」をデュエット。
デュエットの際、谷村さんが小川さんの胸に手を入れられるという演出があり、2人の関係に大きな注目が集まりました。
”もしかして谷村さんと交際してる?”と噂が広がりましたが、あくまでただの演出であり、2人が熱愛関係だったことはなかったのだそうです。
美術評論家の伊東順二と再婚。子供は生まれず現在までに既婚
小川知子は林与一と離婚した5年後の1988年に、4歳年下の美術評論家の伊東順二と再婚。
伊東順二は長年アートの世界で活躍している人物です。
早稲田大学を卒業し、フランスやイタリアで美術関係の仕事に就き、帰国後は美術評論家、アート・プロデューサー、プロジェクトプランナーといった肩書で活動し、現在までにアートの世界で活躍しています。
名前 | 伊東 順二(いとう じゅんじ) |
生年月日 | 1953年9月2日 |
出身地 | 長野県 |
職業 | 美術評論家、プロジェクト・プランナー、プロデューサー |
小川知子と伊東順二の馴れ初めについて詳しいことはわかっていません。
芸能と美術という異なる世界で活動していた2人なので、おそらく共通の知人を介して知り合ったのでは?と言われています。
再婚後はずっと婚姻関係が続いていますが、2人の間に子供が生まれたという報道はありません。
お互いに順調にキャリアを重ね、隙のないパワーカップルに成長しました。
ちなみにネットでは息子や娘の存在が噂になっているようですが、彼女が子供を出産したという情報はなく、おそらくデマだと思われます。
小川知子は元彼・福澤幸雄と死別?事故死直後にTVで熱唱も嘘説
小川知子は20歳の頃に彼氏を亡くした経験があります。
亡くなった彼氏の名前は福澤幸雄さんです。
元彼の幸雄さんは福澤諭吉の曾孫で、父は当時慶應義塾大学法学部助教授の福澤進太郎で母はギリシャ人ソプラノ歌手の福澤アクリヴィのパリ生まれというサラブレット。
カーレーサーでありながらも、持ち前のルックスの良さを生かしてファッションモデルの仕事を兼業していただけでなく、紳士服メーカー「EDWARD'S(エドワーズ)」の元取締役企画部長でもありました。
マックスファクター、東レ、松下電器産業(後のパナソニック ホールディングス)等のイメージ・キャラクターも務めたこともありました。
名前 | 福澤 幸雄(ふくざわ さちお) |
生年月日 | 1943年6月18日 |
出身地 | フランス |
身長 | 170センチ |
職業 | カーレーサー。モデル。 |
小川知子さんが交際していた福澤幸雄さんは、1969年2月12日に事故死。
静岡県袋井市のヤマハテストコースで、トヨタのレーシングカー「トヨタ・7」のテスト走行中に事故を起こしてしまったのです。
享年25歳でした。
交際していた小川知子さんは訃報聞いた直後にテレビ番組「夜のヒットスタジオ」に出演。
番組で「初恋のひと」を披露しますが、悲しさのあまり泣き崩れてしまうというハプニングが発生。
日本中で大きな話題となり、同楽曲は大ヒットとなりましたが、あまりにもあざとい展開に賛否両論がおきました。
福澤幸雄の死後に小川知子がカーレースの映画を制作。近年では「本当は交際していなかった」との声も
小川知子さんは福澤幸雄さんが亡くなって4年後の1973年に彼のドキュメンタリー映画「さよならマカオ」を公開。
この作品では小川さんが出演、監督、主題歌、撮影、録音、編集を担当。
「福澤が愛し、奪った世界をしっかりこの目で見てこの手で記録し、そして乗り越えたい」
という思いから制作したそうです。
しかし、その後に実は亡くなった福澤さんと小川さんが交際関係になかったという噂が出るようになりました。
福澤さんが当時交際していたのは、ピーターの愛称で親しまれたモデルの松田和子さんで、小川知子さんとは恋仲ではなかったというのです。
当時の福澤さんの恋愛事情を知っている方からはバッシングがありましたが、小川さんは幸雄さんの母・アクリヴィさん公認の結婚を前提とした仲だったと説明。
福澤さんが2股をしていた、もしくは認識の違いでフランス仕込みの男女の友情を小川さんが勘違いしていたのでは?など、様々な説が考えられます。
福澤さんが亡くなった今、当時の恋愛事情の本当の部分は不明です。
小川知子は宗教団体「幸福の科学」の広告塔としても活躍!
90年代に入ってからの小川知子さんは、当時はまだ目新しかった現在宗教団体「幸福の科学」の熱心な信者として知られていました。
小川さんは1991年に幸福の科学の広告塔となり、講談社への抗議活動を行うなどしていました。
90年代以降は宗教家としての活動が盛んになり、2010年からは幸福の科学の月刊誌「アー・ユー・ハッピー?」にてエッセイも連載しています。
決して盲目的な信者ではない?強引な勧誘や思想の押しつけはせず
90年代以降、小川知子は幸福の科学の広告塔を務めたことで宗教のイメージがついてしまいました。
しかし、当時から小川さんは周囲に宗教の話をすることは一切無く、宗教的な思想を押し付けるようなこともありませんでした。
また、旦那とも宗教の話をすることはなく、ドライに割り切っているようです。
世間では宗教のイメージが先行していますが、意外にも幸福の科学での活動はあまり行っていない可能性が高いです。
ちなみに小川さんは幸福の科学の広告塔となってからテレビへの露出は減っていきました。
それでも、現在までに女優やタレントとしての活動は続けており、2000年代からは歌手活動にも復帰するなど、仕事のベースに大きな変化はありませんでした。