田邊昭知さんといえば、「田辺エージェンシー」の社長、会長を担ってきた業界の大物です。
芸能界の逸話や都市伝説に名前がよく出る方ですが、若い頃は伝説のバンド「スパイダース」のリーダー兼ドラマーとして活躍され、日本のグループサウンドの基礎に関わった素晴らしい人です。
今日は、あまり知られてない田邊昭知さんのスパイダース時代の逸話や伝説について整理してみたいと思います。
田邊昭知の経歴。東京都生まれの生粋の都会人。23歳でスパイダーズを結成!
田邊昭知さんは東京生まれ東京育ちの生粋の都会っ子です。
地元はスパイダースで活動を共にした井上順さんと同じ渋谷区出身で、田邊さんの妹は井上順さんと松濤中学校の同級生でした。
10代の頃から米軍キャンプ廻りによりドラムを始め、小坂一也さんとワゴン・マスターズの付き人を務め、音楽業界に入ってきました。
名前 | 田邊昭知(たなべしょうち) |
生年月日 | 1938年11月15日 |
出身地 | 東京都渋谷区 |
出身高校 | 高千穂商科大学付属高校 |
堺正章ら原石をスパイダーズに熱心に勧誘
田邊昭知さんはオールスターワゴン、スウィング・ウエストにて活躍した後に、1961年に田辺昭知とザ・スパイダースを結成します。
そこから売れる為に新しく建て直そうと、メンバー1人1人を熱心に勧誘。
その結果↓
仕掛けの天才=田邊昭知さん
演奏&作曲の天才=かまむつさん
作曲の天才=大野克夫さん
喋りの天才=堺正章さん
イケメンボーカルボーカル=井上順
↑隙のない完璧な布陣でスパイダースを始動。
人気バンドにまで押し上げ、バンドが終わった後も各メンバーが音楽業界、お笑いなどで活躍するなど、さすがの先見の明を見せました。
カバーが当たり前の時代にオリジナル曲を作成。ジャズ喫茶から脱出すべく固定メンバーで挑んだ
田邊さんはスパイダースでジャズ喫茶に出演していた頃から、「このままではジャズ喫茶で終わる」と危機感を抱いていたそうです。
メディアで流れる音楽は歌謡曲ばかりでポピュラーミュージックは見向きもされない時代でしたが、田邊さんとかまむつさんと共に足掻いて音楽業界に変えていったのです。
当時のグループサウンドは、洋楽のカバーを曲をランダムなメンバーでサラッとやるような形が多くありましたが、田邊さんはそのやり方を辞めました。
当時にして珍しいオリジナルの曲を何曲もストック。
さらにはメンバーも曲ごとに参加して帰るのではなく、同じメンバーで固定して最後まで演奏するというスタイルを作りました。
結果、グループサウンドの常識を変えて、一般的にも認知させ人気を獲得するに至りました。
ジャズ喫茶でお客さん1人を相手。店長に電源を切られる
売れる前のスパイダースはジャズ喫茶を中心に活動していましたが、売れる前は客入りが少ないことも多かったそう。
ある時、お客さんが1人しかいない時があったそう。
店内に1人だけがポツンと座っており、メンバーが「こっちいらっしゃいよ」とその1人を1列目に呼び、リクエストをもらって贅沢な時間を提供しようとした瞬間、電源がボッと切られてしまったそうです。
なんと、経営者が“電源切ったよ。電気代もったいないから”と言って切ってしまったのです。
スパイダースのメンバーらは「ごめんなさい。僕ら引っ込みます」と、お客さんに挨拶をして帰ったという屈辱を味わったのです。
演奏には厳しいが一所懸命やってればミスしても怒らない
田邊さんはスパイダース時代から演奏や表現にとても厳しい方でした。
トーク担当の酒井さんや井上さんが喋りすぎると、「そろそろ歌いけよ。俺たちコミックバンドじゃないんだから」と怒ったりすることもあったそう。
リーダーとして若いメンバーにも厳しく接しており、怠けてるメンバーがいると容赦なく叱咤激励をしていました。
ただ、一生懸命にやっていると演奏などでミスしても怒らなかったそうで、結果よりも過程を見てくれる方だったそうです。
ライブ中に「This is 昭知 of 田邊!」と挨拶し現在までネタにされる
しっかり者のリーダーのイメージが強い田邊さんですが、当時はそれなりにやらかしの逸話もあります。
1967年にスパイダースのハワイツアーの際、英語が得意な堺正章さんやかまやつさんが挨拶する中、緊張していた田邊さんは英語が頭から飛んでしまい、思わず、
「This is 昭知 of 田邊!」
と挨拶してしまったそう。
このこと田辺エージェンシーのエースタレントであるタモリさんがラジオでネタにしたことがあります。
タモリさんは「This is」は許容できるとしても、姓名の間に「of」を入れるってなんだよ、面白がって話していました。。
スパイダースの弟分メンバーはレストラン「キャンディ」で小林昭知のサインでタダ飯が食べれた
顔の広い田邊さんは芸能人の社交の場にもなっていた名店「キャンティ」にも通っていました。
スパイダースが売れた後、若手メンバーはお金がないものの、田邊さんの行きつけのお店には、田邊さんのサインでご飯が食べれたそう。
ボーカルの井上順さんは、しょっちゅうキャンティに行っては、立木さんご夫妻や石坂浩二さん、加賀まりこさんといった大物たちの面識を持つことができたと回想しています。
ホリプロ内で独立しスパイダーズをセルフブランディング。後に業界屈指の”田辺エージェンシー”
田邊さんは自身のバンドをよく動かしやすくするために、1966年5月、ホリプロダクション社内にスパイダクションを設立しました。
そして、ホリプロの取締役を兼務し、自らザ・スパイダースのマネージメントを手掛け、バンドを大きくしました。
この頃からメンバーのプレイングマネージャーとして先見の明を大いに発揮し、現在の田辺エージェンシーの基盤を創ることになりました。



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