赤い公園の天才・津野米咲の経歴。なぜ自死した?体調不良や自殺願望の歌詞

10年代中盤
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津野米咲さんといえば、”赤い公園”のリーダーであり、作詞作曲を担当していたギタリストです。

2020年10月に29歳の若さで自死しました。

現在でも彼女の才能を悔やむ声が後を絶ちません。

今日は、津野米咲さんの経歴について振り返り、自ら命を落とす道を選んだ理由について考察してみたいと思います。

津野米咲は音楽一家に生まれる。高校時代に佐藤千明らと出会う。20歳でタバコを覚える

津野米咲さんは1991年10月2日に東京都立川に生まれました。

父は作曲家の”つのごうじ”(津野剛司)さんで、母の正美さんはエレクトーンを教える先生でした。

父の津野剛司さんは爆風スランプの前身「爆風銃(バップガン)」「スーパースランプ」や近藤真彦さんのバッグバンド「ダブルス」でベーシストを務めていた過去があります。

1983年には「ゴルゴ13」の主題歌「プレイ・フォー・ユー」で作曲デビューし、以降も数々の名曲を産んだ方としても知られています。

上に2人の兄貴がいて津野米咲さんは末っ子、お兄様も2人ともピアノを習っており、長男はギタリストで次男はドラマーという、生粋の音楽一家でした。

ちなみに祖父は作曲家の津野陽二さんで、祖母様は元タカラジェンヌの津野朱實さん(カンボジアで「米咲」という名の食堂のオーナーをし、米咲の由来になっている)

祖父の津野陽二さんはワンタンメンやロート製薬のCMソングを作った偉大な方です。

名前 津野米咲(つのまいさ)
生年月日 1991年10月2日
没日 2020年10月18日(29歳)
出身地 東京都立川市
血液型 O型
身長 168センチ
家族 父は作曲家・つのごうじ(津野剛司)。母はエレクトーン講師の正美。上に2人の兄。お祖母様は津野朱實は元タカラジェンヌ。
出身小学校 立川市立大山小学校
出身中学 立川市立第五中学校(硬式テニス部)→立川市立第七中学校(吹奏楽部)
出身高校 東村山西高等学校(軽音楽部)
趣味 音楽鑑賞
好きな食べ物 いちご、グミ、ほうとう、ハンバーグ。
長所 音楽が好き
短所 音楽しか好きじゃない

津野米咲さんは家族の影響で3歳の頃からエレクトーンを習い始めます。

父が作曲家だった影響から、幼い頃から自宅ではカーペンターズやビートルズ、アース・ウインド&ファイアー、スティーヴィー・ワンダーなど、何かしら音楽が流れていたそう。

津野米咲さんは父が流す音楽が好きで、クラシックもポップスどジャンル問わずにディスクを漁って、聴いて、鼻歌でうたって、ときには鍵盤を弾いていました。

その他にもリトミックという音楽を使った脳の体操をしたり、バレエを習い始まるなど音楽と共にある幼少期を過ごしました。

小学生の頃にギターとJ-Popに出会いJ-Rockに派生していく

津野米咲さんは小学生になると、バレエとピアノを続ける一方で、サッカーを始めたり音楽教室にも通うようになります。

通っていた小学校は立川市立大山小学校です。

兄が毎日アコースティックギターを弾いていた影響で、津野米咲さんもギターを始め、小学生ながら井上陽水の「傘がない」をマスター。

当時流行っていたハロプロにハマり、ライブに連れて行ってもらったことも。

SMAPが好きになると、やがてミスチル、スピッツ、ロードオブメジャー、椎名林檎、BUMP OF CHICKENなどJ-ROCKとも出会います。

バンド音楽に憧れるようになると、小学生のうちにピアノを辞めます。

音楽マニアぶりが増す一方で、自宅で作曲に奮闘して苦労する父の姿を見ており、音楽を仕事にするのは無理とも思ったそうです。

通っていた音楽教室で、手応えのある曲を作るも先生に「ドとシを一緒に鳴らしちゃダメ」と怒られ、帰宅後に両親に報告すると、父に「おかしくない(ドとシを一緒に鳴らすこと)、そんな教室やめろ」と言われたそう。

また、図工で富士山が課題になった際、大噴火した様子を描いたことで学校から自宅に電話が来て問題に、それでもお母さんは「キレイだね」って褒めてくれたそう。

小学生の頃のからの逸話を聞いてる限り、津野米咲さんの自由な想像力は、親や兄たちの影響が大きかったことが伺えます。

中学の頃に両親が離婚し父と離れ離れ。バレエを辞めて転校先でクラシック音楽に染まる

津野米咲さんは中学生になると、立川市立第五中学校に進学し硬式テニス部に入部。

中学1年の頃に両親が離婚し、母側に引き取られ転校。

転校先の立川市立第七中学校学校ではバレエの友達がたくさんおり、バレエの友人らがみんな吹奏楽部だった影響で津野米咲さんも吹部に入部。※バレエの方は津野米咲さんは股関節が外れてしまい辞めます。

転校先では吹奏楽部に入部し、サックスを始め、チャイコフスキーなど古典的なクラシックから、久石譲、坂本龍一のサントラが好きになります。

高校で軽音楽部に入りメロコアにハマる。佐藤千明らに出会う

高校は公立の割に校則が厳しい東村山西高等学校に進学。

高校の部活は、吹奏楽部が弱かったということで軽音楽部に入部。

父と同じベースを弾こうとするも、ジャンケンで負けてギターを担当することに。

1か月バイトで稼いだ給料で、フェンダージャパンの白のストラトを購入。(56000円)

津野米咲さんはストラトに”白田トミ子”という名前を付けて愛用し、デビュー後もファンの間で馴染みのギターとなっています。

この頃にthe band apart、マキシマム ザ ホルモン、SHAKALABBITS、藍坊主などの邦楽ロックが再熱し、レディオヘッド、シガー・ロス、アルバム・リーフ、ドクター・ジョンなどの洋楽も聴き漁るようになります。

ハロプロ好きも相変わらず、バイトで稼いだお金でアイドルライブに通い詰めていたそう。

通学中にはラジオで知らない曲に出会うことが楽しく、または海外の歌手をジャケ買いするなどして音楽の視野を広げました。

高校でコピーバンド「Funny Bunny」を結成し、チャットモンチーやGO!GO!7188、椎名林檎、ジュディマリやプリプリなどをコピー。

当時はシャイで、下を向いたり、後ろを向いたりしながらギターを弾いていたそう。

1学年後輩の歌川菜穂さん、藤本ひかりさんらが赤い公園の前進バンド「ちょこ坊」を結成し、後に佐藤千明さんがボーカルに入り、津野米咲さんはサポートギターとなりました。

2010年1月4日の初ライブでは、GO!GO!7188「浮舟」、土屋アンナ「rose」、チャットモンチー「湯気」、東京事変「林檎の唄」、阿部真央「ふりぃ」を演奏し、全員がサッカーのユニフォームを衣装にしました。

ちなみに高校生になった頃から、2人の兄貴たちが自立していき、津野米咲さんはずっと1人だったと回想しています。

フリーターとなり水道が止まるなど貧困生活。20歳でタバコを吸い始めメジャーデビュー

津野米咲さんは高校卒業後に親戚がいる大阪に引っ越すことになっていましたが、バンド活動が楽しく、東京に残ることを決断。

しかし、バイトの仕事だけで漫画喫茶で過ごすこともあるなど、自立は困難を極めました。

一人暮らしを始めた後もガスや電気が止まるような生活を送るなど、そのストレスは最終的に自分が向き、「私は私を殺してやりたくなるのさ」という自虐的な歌詞を書くようになります。

この時期は立川にあるライブハウス「バベル」や、マクドナルドでバイトをしていました。

バンド活動ではファンもおらず、客観視することができず、自分たちの判断材料としてがなく、衣装を白で揃えるようになります。

元々、津野米咲さんの楽曲のセンスが良かったもあって、徐々にファンを獲得し、2010年頃にはメジャーのレコード会社の争奪戦。

最終的にグレートハンティングに落ち着き、後に長くマネージャーを務める藤野浩充さん(ミッツ)と出会います。

この頃の津野米咲さんは気が狂ったように創作活動に勤しみ、19歳の頃は缶詰が長く楽しい思い出のない暗黒期だと言われています。

2011年1月4日にシングル「はじめまして」をリリースし、赤い公園デモCD発売&1歳記念企画「このゆびとまれ」をバイト先である立川バベルで開催しました。

この後もバイト先の立川バベルを中心に練習とライブを重ね、津野米咲さん個人としてもロッキンジャパンや東京事変のライブを見に行くなど、経験値を積みます。

2011年10月に20歳の誕生日を迎えると、早々にタバコを覚えました

元々、音楽関係の仕事で副流煙にまみれていたことから、煙があった方が落ち着くということで自然な形で吸い始めたとのこと。

赤い公園唯一の喫煙するメンバーで、好きな銘柄であるショートホープを歌詞に入れたこともあります。

あるレコーディングではショートホープをドサっとテーブルに置いてるシーンがあり、ガチで好きなことが発覚してます。

そして、20歳の誕生日後の10月13日〜20日にカナダツアー「Next Music from TOKYO vol.3」に参加し視察に来た関係者の間で大ウケ、津野米咲さんは食事やホテルの寝巻きなど慣れない環境にホームシックになったそう。

20歳になった津野米咲さんはタバコの他にも教習所に通い始め、さらに翌年にメジャーデビューが決定するなど、新しいこと尽くしでした。

津野米咲のメジャーデビューから自死するまでの時系列。SMAPに楽曲提供で才能を発見される

津野米咲さんは2012年に”赤い公園”’でメジャーデビューを果たしますが、わずか8年後の2020年に杉並区の自宅で亡くなってしまいます

キャリアを通じて5枚のアルバムをリリースし、毎年のようにワンマンツアー、フェス出演、メディア出演、そしてSMAP、モー娘、YUKIなど大物ミュージシャンを提供するという忙しい毎日を過ごしました。

津野米咲さんが自殺した理由は本人にしかわかりませんが、過去の活動や発言を時系列にまとめてみると、彼女なりに苦しい人生を過ごしていたことが分かります。

2012年2月15日 EMIミュージック・ジャパンよりミニ・アルバム「透明なのか黒なのか」でメジャーデビュー
2012年8月頃 音楽漬けの毎日にバンド活動が嫌になる
2012年10月9日 体調不良により休養。活動休止。
2013年3月1日 Ustreamに出演し活動再開を発表。
2013年6月5日 SMAPの50枚目シングル「Joy!!」で作詞・作曲を担当し注目される
2014年3月11日 ナタリーの取材で”歌詞にもあるように「若いままの私で終えたいな」とも思っていたんです”と発言。
2017年春頃 デビュー前からの付き合いであった名物マネージャー・藤野浩充氏が辞める
2017年5月 音楽と人5月号で「最近寝つきが悪い、いつか曲が作れなくなるんじゃないかと思うと寝れなくなる。いつか自分の泉みたいなものが枯渇するんじゃないかっていうギリギリ感がずっとある。」と発言。
2017年7月3日 所属の”赤い公園”のボーカル・佐藤千明が夏いっぱいでの脱退を発表。
2018年5月4日 所属の”赤い公園”のボーカルに元・アイドルネッサンスの石野理子が就任。津野米咲らはソニーミュージックに移籍
2018年9月19日 学生時代にコピーしていたジュディマリのボーカルYUKIに「かたまり」を提供
2019年2月6日 再びYUKIに楽曲「風来坊」提供
2020年4月15日 ”赤い公園”の5枚目のアルバム「THE PARK」オリコンでバンド史上最高位の15位を記録。
2020年5月25日 谷口鮪(KANA-BOON)とのユニット「wasabi」結成。
2020年10月16日 J-WAVE「SONAR MUSIC」の収録※死去の翌日19日に放送される
2020年10月18日 東京都杉並区の自宅で倒れているところを発見される。29歳。

津野米咲は音楽に生かされ音楽に殺された?自分の全てを仕事にした代償

津野米咲さんは自分の長所を「音楽が好きなところ」としながらも、短所も「音楽しか好きじゃないところ」とも語っていました。

音楽一家に生まれて、子供の頃からクラシック、サントラ、洋楽、アイドル、J-Pop、J-Rockと、ジャンル・国籍を問わずに様々な音楽に触れ、津野米咲さんにとっては音楽は潜在的なもの。

幼少期からバレエ、サッカー、テニスと音楽以外の物事に取り組んでた時期がありましたが、これらが趣味にまで派生した形跡はなく、大人になった後もアイドルなど音楽を趣味にしていました。

子供の頃に作曲に苦しむ父親の姿を見て、子供ながらに音楽を仕事にしたくないと思っていたものの、音楽しかなく、音楽の道に進み、父と同じように作曲活動に苦しむことになりました。

高校を卒業後から貧困を味わいながらも極限状態で作曲を続け、デビュー同年は過労で半年の活動休止。(後にデビュー同年はバンドが嫌になっていたと回想)

活動休止期間も眠れず、ひたすら音楽を聴いて曲を作るという生活を送り40曲も作曲するなど、まるで音楽サイボーグのようでした。

活動再会後の2013年にSMAPの50枚目のシングルの作曲し一躍有名になりましたが、この曲を作っていた頃も病み上りで余裕がなかったそう。

2014年も年始早々に体調を崩し、出演予定だったイベントを休み、同年のインタビューで若いまま死にたいと思った時期があったことが知れ闇深い一面を露わにしていました。

津野米咲は限界だった?突出した才能を持ちながらも同年代よりも売れず。佐藤千明脱退、29歳独身でコロナ禍突入

側から見ると恵まれた才能を持ち、音楽業界では作曲家として大好評だった津野米咲さん。

デビューして間もない頃は、お偉いさんに”テレビに出たい”と熱望しており、玄人好みより売れたいと考えていました。

しかし、リーダーを務める”赤い公園”は、世代の近いKEYTALK、THE ORAL CIGARETTES、”ゲスの極み乙女わ”ほど売れず。

一時期は赤い公園関係周辺のバンドの音楽を聴けなくなっていたとも発言しており、かなり焦っていたのではないでしょうか。

突出した才能があり、自分の作る楽曲は評価してもらえるものの、なかなかスターダムにのしあがれない歯がゆい状況が長く続きました。

2017年頃のインタビューでは、いつか自分が音楽を作れなくなるのではないか?と不安で寝れない日があることを告白。

その後にバンドを支えていた名物マネージャーが辞め、ボーカル・佐藤千明さんが脱退、一時期は無所属になるなどゴダゴダ。

親交のあるハマ・オカモトと、”いつか若い女の子をプロデュースしてみたい”と言い出すなど、自らの野望を休めているような印象でした。

2018年に新しいボーカルを迎えると、後ひと押しで良い状況に乗れそうな雰囲気でしたが、2020年にコロナ禍スタート

コロナ禍直後に発売されたアルバムのセールスは悪くないものの、新譜に伴うライブもイベントも自粛しないといけない状況。

膨大な作曲のタスクや、スターダムにのし上がるためのビジョンも全てに疲れ果て、趣味も仕事も音楽と逃げる道もなく、29歳の誕生日を迎えた後、休みたくなったのではないか?との考察ができます。

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