作詞作曲、歌唱、演技、何をやっても評判の良い・RADWIMPSのボーカル・野田洋次郎さん。
巷では”天才”と呼ばれている彼ですが、そう呼ばれる理由は芸術的な才能だけではありません。
野田洋次郎さんは高学歴としても有名で、学生時代のエピソードからも普通の生徒ではなかったことが伺えます。
今日は野田洋次郎さんの華麗な学歴と、高校時代、大学時代の天才的なエピソードについてまとめてみたいと思います。
野田洋次郎の学歴。桐蔭学園系列から現役で慶應義塾大学(SFC)に合格
野田洋次郎さんは父親の仕事の影響で、日本の幼稚園を卒業する目前にアメリカに渡っています。
アメリカでの生活と、日本の小学校に転校した後のことは別記事で書いています。

帰国子女として日本の小学校に通い始めたものの、日本人の顔なのに日本語が下手、”洋次郎”という名前が変わってる、ランドセルではないなど、学校では浮いた存在で虐められたりしたそうです。
小学校 | Scales Elementary School→Soleado Elementary School→Silver Spur Elementary School→世田谷区立桜丘小学校 |
中学 | 私立桐蔭学園中学校男子部 |
高校 | 私立桐蔭学園高等学校(バスケ部) |
大学 | 慶應義塾大学環境情報学部(2年で中退) |
野田洋次郎は神奈川県のマンモス校・桐蔭学園系列の中学/高校出身
野田洋次郎さんは10歳の時にアメリカから帰国し、世田谷区立桜丘小学校に編入。
帰国してすぐの頃は日本の学校に馴染めずに虐めにあいます。
「ちょっとねえ、いろいろ嫌でしたねえ……。小4の3学期で帰ってきたんですけど。異物感、アメリカから帰ってきたんだ、みたいな感じ。そこでいじめは受けたり見たり、いろいろあったし、『なんだろうこれは?』つていう感じ、ありましたね。単純にシカトされたりとか、普通にあったし」
小学5年のに木村拓哉の「夜空ノムコウ」の弾き語りに憧れてギターを始めますが、一緒に奏でる友人はいなかったそう。
小学生の頃から勉強もスポーツも良くでき、特にアメリカ時代は友人とスクール帰りにバスケをして遊んでいたこともあり、バスケの腕前はなかなかのものでした。
中学は私立の難関校・慶應義塾湘南藤沢中等部と桐蔭学園中等部を受験し、合格した神奈川県の桐蔭学園中等部に進学。
中学では得意だったバスケ部に入り活躍し、兄が同中のバスケ部のキャプテンだったこともあってか、小学生の頃までのいじめられっ子は卒業。
また、菅本総理大臣の息子と友人となり、彼も楽器が好きということで、数少ない楽器仲間にも出会うことができました。
「勉強と、部活と、ギターと。だから、あんまり休みの日、友達と遊びに行くみたいなことはしなかったのかな。基本、部活かあったし。あいた時間はギター弾いてるっていう」
基本的には勉強と部活が中心の生活で、ギターは隙間時間しかやらず、将来は音楽で飯を食うなど微塵も思っていなかったそう。
「中3ぐらいかな。オリジナルなんて言えないぐらいのものですけど(笑)。
やっぱコードが押さえられればもう歌のメロディーは適当にのっけられるから。
それで、歌うんだったらメロディーだけじゃなくて歌詞があったほうがいいだろう、ぐらいの感じで。
そのデモテープにも入れてました。
あ、ファーストアルバムの。あいまいつて曲は中2ですね」
それでも、中学2年頃からはオリジナルの楽曲を作り始め、その頃に作った曲はファーストアルバムに収録されています。
中学3年生の頃には兄と同じくバスケ部でキャプテンを務め、チームを牽引しました。
朝6時から朝練に向かい、バスケの練習と勉強に時間を費やし、骨折してる時でも学校を休まず皆勤賞を取るなど、絵に描いたような優等生でした。
RADWIMPSの曲「ヒキコモリロリン」の歌詞に登場する「田中昌也」は中学校時代の好きな教師であり、中学では先生との関係も良かったことが伺えます。
高校はエスカレーターで系列の桐蔭学園に進学しました。
桐蔭学園でもバスケ部で活躍するも退部。桑原と出会いRADWIMPS結成し有名な高校生バンドとなる
高校は系列校の桐蔭学園に進学。
桐蔭学園は共学ではありますが、男子と女子が棟で分けられており、実像は”ほぼ男子校”です。
全国屈指の生徒数を誇るマンモス校で華やかな学園に見えますが、卒業までに半分以上の生徒と会話もできないような冷たい距離感のある高校です。
高校でも得意のバスケ部に入り、低学年のうちに試合に出るなど期待の逸材でしたが、学校生活では友達は全くできませんでした。
高校1年生の時に別の高校に通っていた桑原彰と出会い、ボーカルに誘われる形でRADWIMPSを結成。
結成当時のメンバーは洋次郎さんと桑原さんの他に、ギター・斉木祐介、ベース・朝生恵、ドラム・芝藤昭夫という布陣でした。
RADを結成すると、野田さんはバンドとバスケ部の掛け持ちで地獄のような忙しさでした。
「バンドやり始めて、ライヴやるようになって、忙しさのピークが遂に訪れて。7時半とか8時ぐらいに部活終わって、9時から町田のスタジオとか。で、11時、12時までやって、終電で家帰って、朝は朝練行って、みたいな(笑)。もう地獄ですよね(笑)」
耐えきれなくなり、高校2年生の3月にバスケ部を退部すると、なんと退部直後に同校初のインターハイ(全国大会)を決めるという皮肉。
高校1年までは成績が全体1500人中20位に入るほど優秀で担任に東大を目指せると言われましたが、部活を辞めて時間が生まれると勉強はせず堕落。
メンバーの桑原の在籍する神奈川県立荏田高校の制服を借りてそのまま授業を受けるなど、授業をサボる方向に進みました。
また、当時付き合っていた彼女と一緒に授業を抜け出して、横浜の山下公園などでゆっくりとした時間を過ごしたり、小田急で江ノ島に行ったり新宿まで行ったりし青春を謳歌しました。
高校生にして音楽イベントで結果を残しシングルは完売。受験勉強のために活動休止
バンドは高校2年の内に関内で初ライブを皮切りに「YOKOHAMA HIGHSCHOOL MUSIC FESTIVAL 2002」に出場し「もしも」でグランプリを獲得。
高校生イベントの「青二祭」に出演するなど高校生バンドにして界隈で知られる存在となりました。
高校3年生になると、5月に1万枚限定で1stシングル『もしも』(100円)を販売し即完売(現在ではプレミア化)させ、7月1日には1stアルバム『RADWIMPS』発売。
8月には昨年にグランプリを獲ったYOKOHAMA HIGHSCHOOL MUSIC FESTIVAL 2003にゲスト出演し貫禄のライブ。
バンド活動が順調だった野田洋次郎さんですが、この時でも将来的に音楽で飯を食おうとは思っていなかったとか。
学校生活では3年生になって指定校推薦を巡って生徒同士がギスギスしており、それを冷めた目で見ていたそう。
進学校でクラスは能力別。高3になると誰が大学の指定校推薦をとるとか、誰の成績がヤバいだとか、蹴落とし合いも始まった。仲の良かった同士でギスギスしたり。プライドばかり高い人たちも多く、そういうものを冷めた眼で見ていた。
高3の秋頃には野田さんも現実を見始め、高卒で社会に出る勇気もなく切羽が詰まり、結局は自分も受験勉強に励むことに。
その結果、翌年3月に現役で慶應義塾大学(SFC)に合格。
授業をサボってバンドに没頭していた状態から、わずか数ヶ月で名門私立に合格したということで、仮に2年になった後もちゃんと勉強を続けていれば、先生の言うとおりに東京大学にも合格できてたことでしょう。
ちなみに英語がペラペラな野田洋次郎さんは帰国子女の恩恵でバイリンガルだと思われていますが、実は日本に戻ってから英語に疎くなり、大学受験に向けての勉強で英語を覚えたのが真実だそうです。
野田洋次郎は慶應義塾大学(SFC)に進学するも1年でメジャーデビュー確定し中退
野田洋次郎さんは慶應義塾大学の環境情報学部に進学。
俳優の水嶋ヒロさんは桐蔭学園から慶應義塾大学の学部まで学歴が一緒ですが、交友関係はないようです。
入学式からサークルや多種多様の企業勧誘の人の波に馴染めず、初日から門を引き返し、大学生活には馴染めませんでした。
一方で、RADWIMPSは大学進学により音楽活動を再開し、この頃にメンバーチェンジも図ってベースの武田祐介さん、ドラムスの山口智史さんという現在のオリジナルの布陣が完成しました。
天才大学生バンドとしてインディーズでブレイク
慶應生になって以降、インディーズでの活動が本格的になっていきます。
当時から大学生とは思えない演奏力で他の学生バンドを圧倒し、インディーズメディアでも話題となりました。
洋次郎さんが慶應に通う学生であることと、楽曲のセンスがずば抜けていたことで、”天才”として崇められました。
インディーズのうちに2枚のアルバムをリリースしていますが、当時はレコーディング中にモニターを見ては、合間に大学のレポートと睨めっこするなど、両立がキツかったそうです。
19歳の頃にメジャーデビューが決まり、その頃に音楽に専念するために大学を退学することを考え始めます。
2005年の20歳の頃に「25コ目の染色体」でメジャーデビューすると、2007年頃までに中退。
現在までに大学時代のエピソードを語ることは少なく、本人はあまり楽しくなかった様子です。







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