
浅田美代子さんは1973年にデビューした人アイドル歌手。
日本レコード大賞で新人賞を受賞し、その後もリリース楽曲はヒット。
アイドル歌手として一時代を築き上げ、その後は女優としても力を見せました。
晩年は超天然キャラとしてバラエディ番組で活躍されました。
そんな浅田美代子さんは、実は超お嬢様なのです!
今日は、浅田美代子さんの実家の家族兄弟について書いてみたいと思います。
浅田美代子は東京都港区育ち。出身高校はお嬢様の名門・東京女学館
浅田美代子さんは1956年2月15日に東京都港区に生まれ育ちました。
実家は祖父の代から自動車修理工場を営んでいたようで、美代子さんが生まれた頃には東京都港区内で2つの工場を営んでいました。
土地柄、富裕層が多いため、高級車を中心に修理しかなり儲かっていたようです。
浅田美代子さんは幼少期からクラシックバレエ、英語、絵、オルガンなど、習い事を贅沢に習わせてもらうなど、典型的なお嬢様でした。
名前 | 浅田美代子 |
生年月日 | 1956年2月15日 |
出身地 | 東京都港区 |
身長 | 157センチ |
血液型 | B型 |
出身小学校 | 港区立南山小学校 |
出身中学・高校 | 東京女学館 |
浅田美代子はお嬢様の遊びや私立小学校への進学を嫌がった
幼少期の頃はお嬢様として育てられていましたが、本人はおてんばで木に登って遊んだり、カブトムシやザリガニを捕まるなど普通の子供らしい遊びの方を好みました。
自宅から歩いて行ける距離に東京女学館小学校があったこともあって、両親は浅田さんに受験の苦労をさせまいと小学校受験させます。
しかし、浅田さんは近所で仲良くなった友達と同じ小学校に行きたい想いから、面接で名前を聞かれても「ない、帰ろう!」と答え、わざと不合格になっています。
受験に向けて両親と面接の練習を頑張っていた為、面接後に親にかなり怒られたそうです。
小学校は公立の港区立南山小学校に進学しました。
南山小学校で虐められる。結局は中学から私立・東京女学館に進学
友達と一緒になりたい想いから、わざと公立の小学校に進学した浅田美代子さん。
しかし、小学校に進学すると、美代子さんは学校で虐められてしまいます。
「あとになって、母から『あんた、いじめられていたのよ』って言われて。そこで初めて知るっていう(笑)。たぶんあんまりそういうドロドロしたものに興味がないんだと思う。女子同士の、裏で先生に言いつけたりとか、そういう感じも好きじゃなかったし。」
結局、小学校を卒業した後は、かつて受験した東京女学館の中等部を再受験することに。
中学では勢でつるむということはせずに、本当に仲の良い友人と少人数で過ごしていたそう。
高校2年で芸能活動を始めて中退
高等部に内部進学すると、テニス部に在籍をする傍ら、美術部でも活動。
高校は教学でありましたが、男女の恋愛は禁止。
しかし、浅田さんは構わずに彼氏を作り、ディスコで遊んでみたり自由にしていたようです。
高校2年生の時にスカウトをされ、テレビドラマ「時間ですよ」のオーディションを受けることに。
両親は芸能界に入ることに反対し、オーディションに落ちたら芸能界を諦める約束をします。
超絶美少女だった浅田美代子さんは25000人が参加したオーディションで見事合格。
こうして芸能界デビューが決まったとのと同時に、通っていた高校が芸能活動禁止だったために中退することになります。
ちなみに浅田さんの母は芸能人になったからと言って偉そうにするなと言いつけ、もし偉そうにするなら芸能人なんて辞めてしまえと言い聞かせたそうです。
結果的に浅田美代子さんは70年代前半を代表するアイドルになりましたが、腰が低く礼儀正しい子だとして、業界での評判は上々でした。
浅田美代子の両親。父は”飲む、打つ、買う”。離婚後に最愛の母と暮らすも死別
浅田美代子さんの家族は父と母と弟の4人家族です。
父親は麻布(東京都港区)で祖父の時代から続く自動車修理工場を経営していました。
浅田さんの父は仕事に一生懸命な反面。プライベートではお酒をよく飲み、博打を楽しみ、高額な買い物をすることが多かったそう。
私の父親は「飲む、打つ、買う」をすべてやっている人で、そういう父親を見てきたこともあって、自分の中で絶対に男性を信用できないところがあるんですね。
派手に遊ぶ父親の背中を幼少期の頃から見ていたこともあり、男性のことはあまり信用できなかったそうです。
浅田さんの両親は、浅田さんが吉田拓郎さんと結婚し、弟が大学に入ったあとに離婚。
弟とは大人になった後も仲良くして、母親は最後まで浅田さんの味方をしてくれたそうです。
料理が裁縫が上手な理想的な母親。”偉そうにするな”という助言。50歳で正社員になり60歳で同居
父親が破天荒だった一方で、母親は厳しくも優しい理想的な母親だったようです。
浅田さんが幼少期の頃は、洋裁が得意な母につくってもらうことも多く、雑誌を見ながら「あれがいい」「これがいい」と、リクエストしては作ってもらっていたそう。
また、浅田さんは母の作る下味のない”唐揚げ”が好物で、子供の頃は大皿に山盛りにして塩を軽く振って家族みんなで食べたのが良い思い出だそうです。
高校生の頃は母が作ってくれる鮭、卵、サヤエンドウの3色弁当が毎回楽しみだったそうで、今でもその影響で3色弁当が好きなのだとか。
母親は芸能界入りや吉田拓郎さんとの結婚など、重大な決断の際は毎回反対をしていましたが、最終的にはいつも浅田さんの味方をしてくれたそうです。
芸能界に入る際には「偉そうにだけはするな」と言われ、それが今になっても大切な教えになっているようです。
「偉そうにするな、とよく言われました。生意気なことを言うと、『そんな偉そうなことを言うなら芸能界なんかやめなさい』と。それが一番の教えでした。
母親は浅田さんが芸能界で成功しても、「子供の世話にはならない」と言って自ら働きに出ていたそう。
浅田さんが吉田拓郎さんと離婚後に、良い役がもらえなくなり断り続け、金欠になった際はお金を貸してくれたそうです。
母は50代になって、弟も社会人になった時でも、50代で自分で仕事を探し、いきなり正社員になったそう。
60歳になった時に同居をスタートし、その当時でも母親は夜中までカラオケで歌うなど超人ぶりを見せていたそう。
そんな母は68歳の頃に、風邪っぽく熱があったため、点滴で熱を下げてもらおうと病院に行ったのがきっかけで急性リンパ性白血病が発覚。
医者から”治療しなかったら(余命)1カ月”と言われ、母に伝えるのを躊躇しましたが、いずれ治療でバレる為伝えると「わかりました。よろしくお願いします」と冷静に応え、取り乱さない母の強さに感動。
結局、母は2年間生き延び、70歳で死去。
最愛の母が亡くなった後、浅田美代子さんは抜け殻のようになり、2年間ほど引きこもりになりそうでしたが、飼っていた犬たちの為に世話をしてる内に気持ちが落ち着いてきたそう。
浅田さんは、母の死去、各メディアで母親への想いや尊敬の念を語っています。