
ザ・テンプターズのメンバーであり、晩年まで名俳優として活躍された”ショーケン”こと萩原健一さん。
若い頃は年上の女性と取っ替え引っ替えし、その結果、4度の結婚を経験するなど恋多き人生でありました。
ショーケンさんの女性歴を振り返ると、最も長く交際をしたのが最後の嫁となった冨田リカさんと、不倫から関係が始まった倍賞美津子さんの8年であることがわかります。
倍賞美津子さんとショーケンさんの関係に関しては、報道と本人らの意見の食い違いなどが多く、本人が亡くなった今、事実関係が掴めません。
今日はショーケンさんと倍賞美津子さんの出会いから別れまでの出来事を時系列で書いてみたいと思います。
萩原健一と倍賞美津子の出会いから別れの時系列
1984年 | ショーケンが飲酒運転で人身事故を起こし、業務上過失傷害罪で逮捕。いしだあゆみと離婚。 |
1985年 | 映画「恋文」で2人が共演 |
1985年11月 | 週刊誌が2人でいるところを激写。激昂したショーケンがカメラマンと編集者に暴行し、書類送検。同じ時期に前橋汀子と交際。 |
1986年 | アントニオ猪木に六本木のクラブのママとの不倫報道 |
1988年 | 倍賞美津子とアントニオ猪木が離婚。原因は猪木の不倫報道。 |
1993年11月 | ショーケンがドラマで共演した石田えりと交際発覚。倍賞美津子との破局発覚。 |
倍賞美津子は1971年にアントニオ猪木と結婚。
倍賞美津子さんは戦後の1946年11月に一家が疎開先として移住していた茨城県で生まれ、4歳の頃に東京都北区滝野川に戻りました。
19歳の頃に松竹歌劇団に第18期生として入団し、グランドレビュー「東京踊り」でデビューすると同年にはSKD新人賞と奨励賞を受賞しました。
その後は浅草国際劇場を中心に歌とダンスを叩き上げ、1966年にはシングル「でも好きだった」で歌手デビュー。
1967年に『純情二重奏』で実姉の倍賞千恵子と異母姉妹を演じ映画デビューを果たすと、1969年には五社英雄監督の『人斬り』で京都市民映画祭の新人賞を受賞、その後は松竹に入社し看板女優として活躍されました。
名前 | 倍賞美津子 |
生年月日 | 1946年11月22日 |
出生地 | 茨城県 |
出身地 | 東京都北区 |
身長 | 163センチ |
職業 | 女優。歌手。 |
2人の馴れ初めは倍賞の劇団時代。猪木は妻子持ちでプロポーズし気まずくなり、実家を攻めて落とす
1971年にプロレスラーのアントニオ猪木と結婚し、当時の京王プラザホテルのボードルームで列席者1500人の1億円結婚式をあげて話題になりました。
アントニオ猪木との交際は1970年1月の「女性自身」で報じられており、その頃の見出しは賠償さんの名前が先に書かれるなど、交際発覚時は猪木さんよりも賠償さんの方が知名度がありました。
2人の出会いは1966年に倍賞美津子が在籍していた松竹劇団(SKD)の公演を、猪木さんが先輩レスラー・豊登と観に行き、公演後にSKDの女優らと渋谷で中華料理を食べた時のことでした。
その後に先輩レスラーや友人を交えて食事を繰り返しましたが、当時の猪木さんは妻子持ちだったということですぐに交際には至らず。
出会って半年後の1966年の秋に、2人で横浜までドライブに行ったのが初デートでした。
交際すらしてませんでしたが、猪木さんから「俺と結婚してくれよ」プロポーズ、美津子さんは返事をせず、気まずさからしばらく連絡を取り合わなくなりました。
その後に猪木さんが離婚すると、1969年秋から猛アタックがスタート。
まずは猪木さんの友人に賠償さんの姉・千恵子のファンがいたということで、「千恵子さんのサインがほしい」という口実で練馬の実家を訪ね倍賞美津子さんと再会。
そこから、プロレス好きの賠償さんの母親を味方に付けることに成功。
反対していた父に対しては酒好きなのに目を付け「珍しい酒が手に入りまして」と頻繁に倍賞家を通い入り浸るなどして距離を縮めました。
そして、遂に賠償さんとの交際に漕ぎ着け、1971年11月2日に結婚したという流れです。
倍賞美津子とアントニオ猪木の結婚生活。子供も生まれおしどり夫婦として知られる
結婚してからの2人は試合やメディアで2ショットを見せるなどラブラブ。
結婚して3年後の1974年には娘も誕生。
既婚者であってもお互いの仕事を尊重し、猪木さんはトップレスラーらしいライフスタイルを継続し、賠償さんも1979年の映画『復讐するは我にあり』で堂々とした濡れ場を演じるなど求められる演技はどんなことも必死にこなしました。
賠償さんは1980年の雑誌のインタビューで夫婦生活について、
「彼が帰ってくると他人が来たみたいな気がするのね、最近。だから食事だって特別に作らない。(中略)食事も含めて、体調のコントロールってことに関しては、ほんとにプロの世界なのよね。そういうところって、女房でも絶対に入っていけない部分だと思ってる」
と、一流の世界にいる猪木さんの生活に中途半端に干渉せずに、ほど良い距離感を保っていることを述べていました。
アントニオ猪木さんの死後、現役中は猪木さんとライバル関係にあった前田日明さんは、
「猪木さんにとって、倍賞美津子さんの存在は大きかったと思う。美津子さんによって、猪木さんは才能を開眼させた。“何を見せるのか”“何を見せる必要がないのか”……。それを美津子さんの影響で得たと思うし、実は大きいことだったんじゃないかな」
と語っており、賠償さんのプロ意識に触発され、それが猪木さんのプロレスラーとしての見せ方に影響を与えていたと証言していました。
萩原健一は映画「恋文」で倍賞美津子と出会う。アントニオ猪木とW不倫で略奪離婚
萩原健一は1980年に女優の”いしだあゆみ”さんと結婚するも、1983年に大麻所持で逮捕、そして翌年1984年にも別件で再逮捕され離婚。
ショーケンさんといしだあゆみさんの結婚と離婚については別記事に書いています。
いしだあゆみさんと離婚した翌年の1985年に、倍賞美津子さんと映画で共演。
連城三紀彦の直木賞作品である『恋文』で2人は夫婦役として共演し、ラブラブなシーンを演じました。
その後、週刊誌がショーケンさんと賠償さんが2人でいるところを激写し、激怒したショーケンさんが記者らに暴行を加えるなど一悶着ありました。
ちなみに記者がショーケンさんの青山にある自宅マンションから出てきた倍賞美津子さんに不倫交際について尋ねると、
「お友達のなかの、とってもいいい友人の一人。やましいことはしておりません」(同)と供述するも、近隣の主婦は「倍賞さんの姿を何度もみました」
と、あくまでショーケンさんとは良い友達だと否定しました。
また、ショーケンさんも「親密交際?猪木さんに勝てるわけないじゃない」と不倫関係を否定しました。
世間の多くが2人の不倫関係を疑いましたが、ショーケンさんは同じ頃にヴァイオリン奏者の前橋汀子さんと交際しており、賠償さんとの”ただの友達”という主張を信じる方も多くいました。
しかし、2008年にショーケンさんの回顧録で、賠償さんから「クリスマスどうしてる?」と聞かれ、ショーケンさんが「倍賞さん、家族がいるんじゃないの?」と聞くと、「今、バラバラだから」と返したことなどが暴露されていました。
ショーケンさんが「じゃ、いいよ。家に来て」と誘って家に来たということで、1985年から不倫関係にあったことは確かのようです。
今度はアントニオ猪木に不倫報道が出てW不倫。1987年に離婚
1985年に賠償さんとショーケンさんの不倫記事が出てから1年後、今度はアントニオ猪木さんに不倫報道が出ました。
『FOCUS』(1986年5月30日号)にて、1986年5月上旬の深夜3時に、六本木のクラブのホステス宅から出てきた瞬間を激写。
猪木さんはスキャンダルの責任を取って、”男のけじめ”と丸坊主にするなど反省の色を示しました。
しかし、その後も破綻していた夫婦関係は修復されず、翌1987年秋に二人は正式に離婚することを発表しました。
ショーケンは倍賞美津子を「うちのカミさん」。事実婚。石田えりとの浮気が原因で破局
1987年に倍賞さんと猪木さんの離婚が成立。
その後、ショーケンさんと倍賞美津子さんの関係はさらに親密になりました。
賠償さんは神奈川県横浜市にある萩原の自宅に通うようになり、同棲がスタート。
これまで女性を取っ替え引っ替えしてきたショーケンさんでしたが、賠償さんとの同棲は長く続きました。
ショーケンさんは賠償さんのことを「うちのカミさん」と呼ぶなど、事実婚のような状態でした。
しかし、1993年7月にドラマで石田えりさんと共演すると、同年11月には熱愛報道が出てしまいます。
石田えりとの熱愛で倍賞美津子との同棲解消
1993年11月にショーケンさんと石田えりさんの熱愛が出ると、賠償さんは同棲していた横浜の自宅を飛び出し都内のマンションに移りました。
賠償さんはショーケンさんとの破局について聞かれ、「別れたのは事実です。でも、理由は言いたくありません」と別れた事実を認めましたが原因は明かしませんでした。
一方でショーケンさんも1993年12月15日に横浜の自宅の前で会見を開き、ことの詳細を説明しました。
「ギクシャクし始めたというか、その避けていたものっていうのを話さなくて…だんだん長く生活しているといろいろ感じたり、言わず語らずね、そういうのもあるじゃない。
人生半ばを過ぎて、まだやり残したこともあるし、家族が崩れかけていたことに、気が付かなかったとも言える。
結局(結婚の)タイミングを外したというのかな。別れた原因は、俺にもわからないよ。
それにしても、彼女の方から(破局を)話すなんて思わなかった」
あくまで、元々から賠償さんとの関係がギクシャクしていたと説明し、石田さんとの浮気については触れようとしませんでした。
記者が石田さんとの浮気について質問すると、
「女性問題が原因じゃない! もう来なくていいから! もうインタビューしなくていいから。もう、やんない。それじゃ…」
と強制終了。
たまたま、賠償さんとの別れそうな時期と、石田さんとの浮気が重なっただけで、他にもっとちゃんとした理由があったとの見方がされています。