元BOOWYの伝説のボーカリスト・氷室京介さん。
引退後も氷室京介さんが業界に残した影響は残り続け、現在も若い世代に尊敬されています。
氷室京介さんの魅力は語り尽くせないですが、アマチュア時代からの逸話、独自のオーラ、作り物ではない本物の匂いしかしません。
今日は氷室京介さんの学生時代、アマチュア時代、BOOWYとしてメジャーデビューから解散、ソロ初期までの逸話とイケメンぶりを回想してみたいと思います。
氷室京介の学生時代が怖すぎる。地元で有名な喧嘩の強い不良
氷室京介さんは群馬県倉賀野町(現在は高崎市)出身。
実家は高崎市内で寺西精肉店を営み、兄弟は4歳年上の姉が1人います。

子供の頃から絵を描くのが上手で、アートの才能に溢れました。
その一方で、父親はヤンチャをしていた方で、育児に関しては放任主義で、氷室さんは自由に育てられました。
| 芸名 | 氷室京介 |
| 呼び名 | ヒムロック |
| 本名 | 寺西修 |
| 生年月日 | 1960年10月7日 |
| 出身地 | 群馬県倉賀野町(現在は高崎市) |
| 血液型 | O型 |
| 出身小学校 | 高崎市立倉賀野小学校 |
| 出身中学 | 高崎市立倉賀野中学校 |
| 出身高校 | 群馬県立藤岡高校 |
氷室京介の中学・高校時代の喧嘩伝説
氷室さんは地元高崎市内の公立校の倉賀野中学校に進学すると、入学早々に着用していた改造スボン(ボンタン)を巡って上級生から呼び出し。
校舎の裏に呼び出された氷室さんですが、なんと上級生を返り討ち。
この頃から自分の腕っぷしに自信を持ち、喧嘩に目覚めていったそうです。

中学時代は喧嘩に明け暮れ、友人の盗んできたバイクに乗り、または溜まり場であった友人の兄の部屋で麻雀を覚えるなど、不良として開拓していきました。
中学3年生になる頃には4歳年上の姉が持っていたエレキギターに興味を持ち、またキャロルの解散ライブを観たことでロックに目覚めていきます。
ちなみに中学時代の同級生には17歳でエレキギターで感電死した詩の天才”山田かまち”さんと同級生で、実家が近かったこともあり松井常松(後のBOOWY)さんを含めて、3人で演奏して遊んだこともあったそう。

中学時代は”山田かまち”さんとの出会いも、氷室京介さんに良い影響を与えています。
ガチの不良をやっていた氷室京介さんですが、この頃から高校に進学したいがために勉強もそれなりに頑張りました。※生まれた3人の子供は全員が難関大学に合格、地頭の良さがDNAから証明されています。
高校時代の氷室京介は地元で「帝王」と恐れられていた
氷室京介さんは藤岡高校に進学すると、中学時代と変わらず不良の道を進みます。
本人は「(ケンカは)強くはないが、売られたら必ず買う」と謙遜していますが、週刊誌の取材などから高校時代は地元で「帝王」と呼ばれるほど恐れられる存在だったことが暴露されています。

地元では本名の「寺西」の方で有名で、売れた後に地元のイベントに祝電を送った際は「ゴミが埃(誇り)になって帰ってきた」と皮肉られました。

親交のある吉川晃司さんも、氷室さんについて「路上のプロ」と語るなど、その名は有名だったようです。

高校時代の写真はどれもファッションだけの不良ではなく、どう見てもガチ勢。

なんとも、高校時代は無免許ながら暴走族に所属していたとか。
噂では悪名高きブラックエンペラーの群馬支部に加入していたといわれています。

氷室さん高校時代の自分を「いつもイライラしてた」、「自分はいったい何をしたいのか?」と悶々としていたと振り返っています。

高校2年の頃にバンドを始めてたことが救いで、BOOWYのマネージャーは「もしバンドをやっていなかったらヤク⚪︎になっていた」と回想し、音楽が氷室さんの人生を変えたとされます。
高校時代に組んでいたバンド「デスペナルティ」は、地元の高崎界隈では布袋寅泰さんが在籍していた”ジギー・リギー”と人気を二分。
氷室さんは最初、ボーカルではなくフォークバンドでドラムを叩いていたとか、想像できませんね。

両者が対バンを行うと500人規模のホールが埋まり、高校生バンドにして追っかけまで存在していたそうです。
17歳の頃に中学時代の同級生で実家近所の音楽仲間であった”山田かまち”が急逝。

”山田かまち”さんの死の知らせを聞いた頃、氷室さんは志賀高原でバンドの合宿中で、そのままで高崎に戻り葬儀に参列。
BOØWYの『MORAL』は彼に向けた曲であり、歌詞に「あいつが自殺したときも」とあるために、その後に自殺説が囁かれるようになりました。
高校時代の山田さんとの死別は、氷室さんの音楽性だけでなく人生観に大いに影響を与えたと言われています。
また、高校時代には後に最愛の妻となるTAMAさんとも出会っています。

出会った頃は恋には発展せず、交際するのは大人になってからとなりました。
氷室京介は高校卒業後に上京し優秀なセールスマン。20歳でBOOWYの前身「暴威」結成
氷室さんは高校を卒業後はデスペナルティのメンバーと共に上京し、そこから音楽での成功を夢見ました。
上京後、フォークロックのスピニッヂ・パワーに加入し、バンド活動をしながらヒモのような生活。

活動が進展せず、行き詰っていた頃に当時の彼女と忌野清志郎さん(RCサクセション)の日比谷野音公演を観に行ったところ、
「俺っていままで何をやっていたんだろう?」
「ガチンと殴られたような気がした」
として、ロックバンドにシフトチェンジ。
また、「このままではマズイ」と「夢を叶えるための仮の姿」として英語教材を販売する会社で営業の仕事に就きます。
営業マンとしての氷室さんは優秀で、40万円のセットを巧みに販売し、なんと全国売り上げ8位を記録。
当時の氷室さんは月給150万円の高給取りとなりました。
しかし上司からの期待に対して自身には音楽の夢があり葛藤。
結果的に夢を捨てたくない一心で、上司に「音楽で夢をつかみたいんです」と事情を話し、円満退社となりました。
20歳で布袋寅泰などを勧誘し「暴威(BOOWY)」を結成
氷室さんは20歳になった頃、群馬県時代のライバルであり後輩の布袋寅泰さんも上京してると知ると、氷室さんは布袋さんを電話で呼び出し勧誘。
六本木アマンドに呼び出された布袋さんは、群馬時代の氷室さん印象のままで「殴られる」と身構えていたそう。
しかし、待ち合わせ場に現れた氷室さんは群馬時代のヤンキーの装いから一変し、都会的な中性的な姿に変貌しており、大変驚いたそうです。

再会後に布袋さんとミスタードーナッツで会話し、音楽の趣味趣向が合ったことからバンドを組むことが決定。
氷室さんはすぐに布袋さんを所属事務所・ビーイングへ連れて行き、所属バンドからの脱退と布袋さんとバンドを結成する意志を社長に伝えました。
そして、”メンバーは自分たちで見つける”、”楽曲が出来たら提出する”ことを条件に承諾され、そこからは布袋さんとの作曲とメンバー探しに勤しみました。
同年中にBOØWYの代表曲となる「IMAGE DOWN」や「NO. NEW YORK」を完成させ、氷室さんと高校時代にバンドを組んでいた松井恒松さんが加入。
その後に同じく元デスペナルティーの諸星アツシ、布袋と”ジギー・リギー”で活動していた深沢和明さんが加入し、スピニッヂ・パワーで一緒だったの木村マモルさんがサポートメンバーという形で合流しました。
当時、布袋寅泰さんのギタースタイルを好まないメンバーもいましたが、氷室さんは頑なに布袋さんを守ったそうです。
20代の頃の氷室京介の美しさ。デビューからブレイク、解散&ソロ。
1980年に基礎が出来上がったBOOWY。

当時の氷室京介さんはヤンチャが抜け切れておらず、界隈では有名な”元暴走族の怖いバンド”でした。
BOOWYの所属していたビーイングの社長は老舗ライブハウス「ロフト」に頼み込み、ロフトを中心にライブ活動を行うことになりました。
当初、ロフトの創設者の平野氏はBOOWYのデモを聴き将来性を感じ、BOOWYを扱うことになりましたが、これが問題だらけ。
1981年5月11日の初ライブは僅か11人で、この時のお客さんの1人に後に加入するメンバー・高橋まことさんがいるなど、早々に客層の柄が悪かったそう。
また、対バン相手のリハーサルが遅れた際に、待機中の氷室さんが「遅えな、どうなってんだよ」とテーブルを叩いて店長にブチ切れする事件もありました。

大事なプレゼンにメンバーが遅刻したり、どこのレーベルも不良すぎて扱えないとBOOWYとの仕事を避け、遂にはビーイングも手を引いてしまったそう。
28歳で人気絶頂の中で解散
ライブの動員は増えて行くも、氷室さんが「今月で解散する」と言い出すことはしょっちゅうで、いつ解散してもおかしくない状態。

レギュラーで出演していたキャパ300のロフトにもお客さんが溢れ、やがて渋谷のキャパ1000の「ライブ・イン」にBOOWYの活動場は変わっていきます。
この時、ロフトの店長はキャパの都合を抜きにしても「こんないつ解散するかわからんバンド手に負えない」「ビーイングと同じように俺(ロフト)も手を引く」と、BOOWYから手を引けることに安堵していたそう。
売れる手前、氷室さんは下積み時代を支えてくれた彼女と入籍。

まだ完全に売れ切っていない時期であり、氷室さんらしい度胸のある結婚でありました。

その後にBOOWYは一世を風靡。
基本的には男性ファンがメインでしたが、氷室京介さんの甘いマスクに夢中になる女性ファンも多くいました。

当時のイケメンボーカリストといえばアイドルがメイン。
その時代でロックというジャンルから”明らかに悪なイケメン”な氷室京介さんが登場してしまったのですから、若者が夢中になってしまうのも無理ありません。

20代のBOOWY時代の氷室京介さんの色気、カリスマ性は現在でも伝説として語り継がれています。
- アマチュアのライブハウスから成り上がった最初の成功例
- 色物ではないかっこいいメイクのハシリ
- 主要メンバーがメインライターで良曲を連発
- 強いバックアップのない環境からの巨大セールス
↑現在までのロックバンドのスタンダートを作ったのも氷室京介さんです。
80年代を代表する売れっ子バンドになりますが、BOOWYは一瞬にして解散。
”アルバムが1位になったら解散する”として、1位を獲得後に解散。
”かっこいい姿のまま伝説として終わりたい”として本当に終わり、氷室さんが引退するまでに1度も再結成はせずに消え去りました。
現在までに”日本のロックバンドの完成系”と言われ、解散後もファンは増え続け、コピーする若者が絶ちません。
氷室さんはBOOWYでのロフト時代を「あの薄暗い地下のスペースから自分自身の歴史が始まったことを、いつだって誇りに思っている」と回想していますが、その言葉にロフト関係者は複雑な気持ちになったそうです。
氷室京介は30代も40代も魅力的であった
20代の氷室京介さんの美しさは有名ですが、ソロになった30代以降も素敵でありました。

ソロ以降も売り上げやライブ動員は圧倒的で、BOOWY時代の比にならないほどの富を築きました。
メディアの露出を控えながらも音楽賞はきっちり獲り続け、私生活ではアメリカに拠点を移し家庭との両立に成功しました。

40代になっても、50代になっても魅力は衰えず、かっこいい姿のまま引退し現役を走りに抜きました。
売れる前に結婚した奥さんをずっと大切にし、不倫報道は1度もなく、かっこ悪いゴシップとは無縁でした。
生まれた3人の子供は全員優秀であり、父親としても素敵でありました。
ビジュアルだけでなく、人間的にも氷室さんは愛され、尊敬され続けています。





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