いしだあゆみの伝説の実家。美人4姉妹はなかにし礼と結婚しフィギュアで五輪

昭和の時代に歌手と女優として大成功を収めた”いしだあゆみ”さん

いしだあゆみさんといえば、4姉妹の次女で、姉妹たちも美人な上に華麗な経歴を誇ります。

そして実家の喫茶店「フジヤ」は大阪府池田市の商店街の老舗名店として知られ、ドラマ「てるてる家族」のモデルにもなっています。

今日は、いしだあゆみさんの実家と家族、美人4姉妹についての情報を整理してみたいと思います。

いしだあゆみの実家は老舗喫茶店”フジヤ”の伝説と現在。ドラマ「てるてる家族」のモデル

いしだあゆみさんは本名”石田良子(よしこ)”です。

1948年3月26日に長崎県佐世保市に、大阪府池田市の老舗喫茶店兼パン屋・フジヤの跡取り息子の父と、福岡県大牟田市の母の間に誕生しました。

両親の他にも上に姉が1人、下に妹が2人おり6人家族の次女でした。

一家はいしだあゆみさんが5歳になった1953年に、父の大阪府池田市 “サカエマチ1番街”にある実家「フジヤ」を継ぐために大阪府に引っ越し。

いしだあゆみさんの父がフジヤを継承した際のことは、妹・由利子の夫”なかにし礼”さんが原作のドラマ「てるてる家族」で忠実に再現されています。

原作を書いた”なかにし礼”さんは、いしだあゆみさんの妹のゆりさんと結婚しており、身内視点からフジヤの歴史を知っていました。

それだけに「てるてる家族」はフィクションは2割程度、残りの8割は事実を描いたということ、石田家の伝記作品といえます。

フジヤは”TVが観れる喫茶店”として人気!現在は閉店。カップラーメンを開発した日清食品の社長も通っていた

父がフジヤを継いだ昭和30年代は戦後の復興期で、色々とアイディアを出しながら夫婦で試行錯誤を繰り返していました。

当時、テレビに群がる人をヒントに、一家に1台もあるかわからない”テレビ”を喫茶店に置き、”テレビ喫茶”という斬新なスタイルで人気店に。

また、フジヤは地元・池田市の小中学校に出張でパンを販売していた時期もあり、地元ではよく知られた懐かしい味のお店でもありました。

日清食品の社長の安藤宏基さんはいしだあゆみさんと小中の同級生で、子供の頃から家族でフジヤの常連

子供の頃の安藤さんは、両親と愛犬と五月山へ散歩に行った帰りに「フジヤ」でクリームソーダを飲むのが定番で、毎回楽しみにしていたそう。

石田さんの家族も地元では顔が広い名士だったということで、安藤社長の家族とは家族ぐるみの良い付き合いであり、石田家をモデルにしたドラマ「てるてる家族」は安藤さんの父・百福をモデルにした人物が登場。

人類で初めてのインスタントラーメンを開発する一幕があり、フジヤはカップラーメンの歴史の近くにあったことが分かっています。

パン屋としての活動範囲の広さだけでなく、喫茶店としての営業も素晴らしく関わる人たちの想いが強く残る名店だったのです。

多くの人の思い出が眠る名店として長く経営されましたが、その後ブティックに変身、現在はシャッターを閉めています。

いしだあゆみは美人4姉妹の次女。姉の治子はフィギュア日本代表、妹”ゆり”は歌手で”なかにし礼”と結婚

いしだあゆみさんは4姉妹の次女で、地元では”美人4姉妹”として知られていました。

長女 石田治子※フィギュア選手
次女 いしだあゆみ※女優
三女 石田三恵子
四女 石田由利子※歌手で芸名は”ゆりで”なかにし礼と結婚し現在は”中西由利子”

長女の石田治子さんはフィギュアスケートの五輪代表選手で、末っ子四女の由利子さんは”石田ゆり”の芸名で歌手として活躍されました。

三女は一般職なため無名ですが、三女もかなりの美人だそうです。

フィギュアは長女の治子だけでなく、次女のいしだあゆみさんや下の妹たちも同様にフィギュアを習っていました。

姉妹がフィギュアを始めたのは、実家のお店「フジヤ」が梅田スポーツガーデン」(梅田阪急スケートリンク)でパン販売などの支店を出していた影響です。

いしだあゆみさんと小中の同級生でフジヤの常連だった日清食品の社長の安藤宏基さんは、少年時代に何度かいしだあゆみさんと一緒にスケートリンクに行ったことがあるそう。

安藤さんはスケート初心者だった為、いしだあゆみさんに滑り方を手取り足取り教えてもらっていたそうです。

姉の石田治子は1968年の五輪日本代表で26位。娘は宝塚劇団に所属していた

いしだあゆみさんの3歳年上の長女である石田治子さん。

実家がスケートリンクにパン類を出店していた影響で小学3年生からフィギュアスケートを始めました。

石田家は姉妹みんながフィギュアスケートを嗜んでいましたが、長女の治子さんだけ才能が頭1つ抜けていました。

長女の治子さんは田中鉄太郎氏稲田悦子氏に指導を受け、学生の頃から国内トップクラスの有望選手として活躍されました。

同志社大学に在学中の1968年にはグルノーブルオリンピック女子シングル日本代表として出場し、26位の成績を収めました。

五輪に出場した同年に23歳の若さで引退し、その後はコーチ業に励みました。

指導者としては現在までに小林れい子、青谷いずみ、柏原由起子等を育てました

一時期コーチ業から離れますが浜田美栄に要請され、宮原知子や白岩優奈らの指導を任されました。

あまり知られていませんが、紀平梨花選手と坂本花織選手は幼少期の頃に「てるてる家族」を観た影響でスケートに興味を持ったということで、意外なところにも治子さんの影響が及んでます。

名前 石田治子(はるこ)※現在は”岡本治子”
生年月日 1945年11月16日
出生地 長崎県佐世保市
出身地 大阪府池田市
身長 158センチ
出身中学・高校 相愛中学・高等学校
出身大学 同志社大学

結婚後に苗字が”岡本”になり、生まれた娘は宝塚歌劇団に所属

治子さんの娘は松雪可奈子(まつゆき かなこ)”の芸名で雪組の娘役で活躍されました。

娘は1995年に入団し、1999年に退団しています。

退団して20年以上経っていますが、娘は現在も美人で”さすが石田家の遺伝子!”と言われてます。

妹の”石田ゆり”は歌手になり”なかにし礼”と結婚。息子は中西康夫

いしだあゆみさんの3歳年下の妹・石田ゆりさん

本名は”由利子”で、”ゆり”は芸名です

石田ゆりさんは1968年に梅花高等学校1年修了で宝塚音楽学校に入学し、同期には小柳ルミ子や麻実れいがいました。

1970年に同校を卒業し、宝塚入団目前でした。

「名月ゆり」の芸名も決まり、宝塚入団がほぼ決まっていましたが、最終的に入団を辞退。

宝塚入りを辞めて同年い上京し、芸映に所属し同年のうちにシングル悲しみのアリア」で歌手デビューを果たしました。

姉の”いしだあゆみ”の妹ということで注目を浴び、デビューシングルはそこそこ売れました。

名前 石田由利子(ゆりこ)※現在は”中西由利子”
芸名 石田ゆり
出身地 大阪府池田市
生年月日 1951年11月23日
職業 元歌手

デビューシングルこそ売れた石田ゆりさんですが、その後にリリースした三枚のシングルと二枚のアルバムはさほど売れませんでした。

デビューして僅か1年1か月の1971年11月に売れっ子作詞家の”なかにし礼”さんと結婚し、引退を決断しました。

売れっ子作家と、いしだあゆみの妹の結婚だったということで、結婚式には豪華なメンバーが集結し、挙式の見届け人は児玉誉士夫でした。

なかにし礼さんと結婚した後は男の子と女の子を出産し、その後は1978年にテレビドラマ「ムー一族」に呑み屋の女将役として一度だけ復活。

この「ムー族」を最後に歌手・女優としての活動は一切ありませんでした。

現在の石田ゆりさんは、メディア露出することがあっても夫のなかにし礼さん関連ぐらいで、出演する場合は結婚後の本名「中西由利子」を名乗りました。

夫の”なかにし礼”さんが石田家をモデルに書いた「てるてる家族」では、主人公のモデルが石田ゆりさんになるなど、コンスタントで話題にはなりました。

生まれた長男・中西康夫さんは音楽プロデューサーとして活躍され、夫の”なかにし礼”さんは2020年12月23日に死去されています。

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