岡田有希子さんといえば、ポスト松田聖子として期待された新人アイドルです。
学業優秀なお嬢様育ちで、親や先生の反対を押し切ってオーディションに参加。
1983年にデビューし、死去した1986年までにアイドルとして全国ツアーやプロモーション、連続ドラマ出演等多忙な日々を送り、亡くなるまでの約3年間で数十億の売り上げをあげていたと言われています。
デビュー早々に当時トップアイドルだった松田聖子さんに迫る人気を博しながらも、1986年4月8日に所属事務所のビル屋上から飛び降り18歳の若さで死去しました。
なぜ、岡田有希子さんは自死を選んだのか、遺書と解釈されている日記はどんな内容だったのか。生前の岡田有希子さんと峰岸徹さんや神田正輝さんとはどんな関係だったのか。
今日は岡田有希子さんが亡くなるまでの出来事を時系列で整理してみたいと思います。
岡田有希子が飛び降り自殺までの時系列。何度もガスで未遂。直前まで無計画で衝動的だった
小学生 | 芸能界に憧れ独自で演技などの勉強。地元のラジオやテレビに出演。学業も優秀で学校では先生たちからチヤホヤされ同級生からは嫉妬されていた。 |
1980年(中学1年) | ホリプロやテレビドラマなどのオーディションを受け、「中学生日記」ではエキストラとして出演。 |
1981年夏頃(中学2年) | 親にニコンフレッシュコンテスト参加を反対され自宅でガス自殺未遂。※参加し準グランプリ |
1982年(中学3年) | 「スタ誕」の決勝戦に進むも、再び親から反対。ストライキを起こし母に「私が消えようかと思っていました」との手紙を贈る。※参加し合格 |
1983年8月(高校1年) | 上京。社長の成城の自宅に他アイドルと共に下宿。 |
1983年10月 | タレント活動開始 |
1984年4月(高校2年) | 歌手デビュー。同年のレコード大賞で最優秀新人賞受賞 |
1985年2月 | 彼女を密着取材した記者は彼女の多忙さを見て「私たちの体力ではもう駄目。ああ情けない」と過酷ぶりを伝える。 |
1985年11月(高校3年) | ドラマ「禁じられたマリコ」で峰岸徹と共演。撮影期間中、彼の自宅が成城で岡田の下宿先も近所という都合で車で送っていた。食事に行く仲になり密会を重ねる。 |
1986年1月17日 | 「禁じられたマリコ」の打ち上げ。※峰岸徹は死後の会見で岡田と会ったのがこの日が最後と答える。(実際は3月22日のイベントが最後) |
3月22日1時(高校卒業) | 新宿の映画館『ミラノ座』のオールナイトイベント。控え室辺りで岡田有希子と峰岸徹が会い写真が入っているとみられる封筒を渡す。 |
3月22日3時 | イベントが終わる頃には2人共会場から消えていた。イベントでの峰岸はイライラ。(4月末に婚約者と入籍予定でだった為か) |
3月30日 | アイドル・遠藤康子が事務所に恋人と別れさせられたショックでビル7階から飛び降り17歳で死去 |
4月4日 | 青山で1人暮らしをスタートさせる。峰岸徹の自宅から離れ、事務所の監視も強くなる。峰岸の電話のレスポンスが悪くなる |
4月5日 | 遠藤康子の自死に対して友人に「歌を諦めれば良いのにね」と普段の雰囲気で話す |
4月6日 | 新幹線の中で関係者に遠藤康子について「遠藤さん、亡くなってしまったのねぇ」と話す。 |
4月7日昼 | 浅見純子と映画鑑賞。生田智子を映画に誘うも学校の為断る。新宿で「スターウォーズ」の後、19時から渋谷で「ロッキー4」を鑑賞。 |
4月7日20時半頃 | 公衆電話で何者かに電話。峰岸徹かと思われる。浅見純子と別れるまでに「電話しよう」と青山の新居の電話番号を渡す。 |
4月7日22時 | 青山の1人暮らしのマンションに帰宅 |
4月7日22時頃 | マネージャーから翌日(8日)のドラマ撮影が中止になったと電話が来る。「荷物(引っ越しの)の整理をしなきゃ」と明るく話す。峰岸も8日はオフ。 |
4月7日23時〜半頃 | 峰岸徹の自宅に電話する。一緒に映画に行けなかった生田智子とも電話。石野陽子から電話が来るも出ず。生田からの再着信は留守電になる。 |
4月7日23時半〜 | 生田智子に2回目の電話。峯岸の電話に女性が出て「シャワーを浴びてる」と言われたことを話す。「留守番になってたけど何してたの?」と聞かれ「近所のスタイリストのところに行ってた」とも答える。※この電話で生田智子は生前の岡田は話した最後のアイドルとなる |
4月8日5時20分頃 | タクシーで成城の峰岸徹の自宅の前まで行く。自宅の外から婚約者の気配を感じてしまう? |
4月8日5時55分頃 | 泣き腫らした顔で成城からタクシーに乗り東京駅付近で降りる。実家に帰ろうとした? |
4月8日10時 | 自宅で峰岸の名を含む置き書きをしてガス自殺未遂。病院に搬送され4針を縫い精神安定剤を投与される。刑事が来るなど大ごとになる。軽傷なので入院せず帰宅。 |
4月8日12時頃 | 本人の希望で事務所に向かう。専務が目を離した隙に屋上から転落。 |
死去後 | 峰岸徹が会見を開き交際の事実を否定。岡田有希子からの好意は自覚していた。 |
時系列を見ていると、置き手紙を書いてガスで自死の意思を見せるということを中学2年の頃と亡くなった日と、生涯で2回やってることが分かります。
4月5日の同じアイドルの遠藤康子さんが恋人と別れるように事務所に圧を掛けられ自死し、岡田さんは「歌を諦めれば良いのにね」と冷静に話していたことから、3日後に自分も同じような道を行くことを微塵も想像していなかったことが伺えます。
峰岸さんとの関係も撮影期間中のみのプラトニックな関係で、撮影後に恋に免疫のない岡田有希子さんがその関係を深追いし、自滅したという印象です。
岡田有希子は飛び降りる前にも自宅でもガス自殺未遂。中学生の頃にも同じ手口で死のうとした
岡田有希子さんが飛び降り自殺を図ったのは1986年4月8日のお昼です。
当初、岡田有希子さんは6階にある事務所の社長室に福田専務と付き人の女性の3人でいました。
12時15分頃に、福田専務が社長からの電話を受け席を外し、その隙に付き人の女性に「トイレに行く」と嘘をついて屋上へ。
福田専務が部屋に戻ると岡田さんの姿がなく、トイレに行くと言いながらもトイレにはおらず、2人で探すも見つからず。
脱ぎ捨てられたスリッパが屋上に続く階段にあり、「もしや」と思い屋上に。
下を覗くと、そこには屋上から飛び降り、頭から血を流した岡田さんの姿がありました。
岡田有希子は1人暮らしを始めたばかりの自宅でガスで自殺未遂をしていた
福田専務のインタビューから、岡田有希子さんは飛び降りた同日の午前にも、自宅でガスを使った自殺未遂をしていたことが分かりました。
岡田有希子さんはデビュー当時は相澤秀禎社長宅に所属アイドルらと共同で下宿していましたが、高校卒業後の1986年4月4日に青山にあるマンションで1人暮らしをスタートさせていました。
つまり、1人暮らしを始めてわずか4日後の4月8日に自殺未遂を行ったということになります。
岡田有希子さんは4月8日の午前10時頃、部屋にガスを溜め自殺を図るも異臭に気づいた近所の人に通報され失敗。
福田専務は相澤社長から、「有希子が大変だ。北青山病院に迎えにすぐ行ってくれ」と電話を受け駆けつけると、岡田有希子さんはカーテンの奥で手首に包帯を巻かれた状態で、シクシクと泣いていたそう。
その後、岡田有希子さんは北青山病院で治療を受けた後、3針縫うも大きな怪我はなく、入院はせず病院を出ることに。
病院を出た後にタクシーに乗り福田専務に、
『どこに行きたい? 名古屋の実家へ戻るか? 自宅マンションへ帰るか? 事務所に行く?』
と聞かれると岡田さんは、
”事務所に行きたい”
と答え、福田専務と付き人の女性と、3人で四谷にあるサンミュージックの事務所に行くことに。
そして、その後に自殺を図ったという流れだったのです。
岡田有希子は自傷気質?中学生の頃にはオーディション参加を反対した親に抗議しガスで自殺未遂
岡田有希子さんの死後2年後の1988年、母である孝子さんは手記「愛をください」を出版。
母が出版した手記には、彼女が中学2年生だった1981年にも、自宅でガスを使った自殺未遂をしていたことが綴られていました。
きっかけは1981年に開催された『ニコン フレッシュギャルコンテスト』に参加したいとお願いするも、親に反対されたこと。
母が帰宅すると部屋がガス臭く、彼女を問い詰めると、
「途中でニオイに気づいて消した。だけどあのままでいたら自殺じゃなく、自然に死ねたのにね。だけどやっぱり死ねなかった」
と話し、すぐに娘が自殺しようとしていたことに気づいたそうです。
その時、娘から”オーディションに参加しないなら死ぬ”という強い気迫を感じたそう。
結果、無事にオーディションに参加し、見事に準グランプリを受賞しました。
中学3年生になると、前年に応募していた『スター誕生!』の予選会通知が中京テレビから届き、彼女は担任教諭に反対される中、学校を無断欠席して名古屋地区予選に出場。
見事に決戦大会への切符を掴むも、またもや家族に反対され、部屋に閉じこもるなどストライキ。
ストライキ中に母親に書いた手紙の内容には、自殺を連想さす一文が書かれていました。
「本当はこのまま全てを投げ出して 私が消えようと思っていました」
とあり、出場できないなら、再び1年前と同じような行動を取るのではないか?と思わせる言葉です。
また、手紙の最後を「さようなら」と締めくくっているのも、”出場しないのなら人生を終わらす”という覚悟を感じます。
結局、母からの「学内テストで学年1位になること」「中部統一模擬試験で学内5位以内に入ること」「第1志望の名古屋市立向陽高等学校に合格すること」という条件で出場を許すことに。
岡田有希子さんはテスト範囲のノートを丸暗記するなど、猛勉強の末に見事に条件をクリア。
無事に出場した決勝でも結果を残しました。
血の滲む努力と行動力で芸能界入りを勝ち取りましたが、そこに至るまでに自分の命を賭けて突き進む危うさが既にありました。
なぜ岡田有希子は自殺した?遺書に”峰岸徹”と”結婚”。福田専務”失恋”と”自責の念”が理由と説明
岡田有希子さんが亡くなった当初は遺書のようなものは存在しないと報じられましたが、実際は自宅に封筒に入った手紙が発見されています。
置き書き程度のものと認識してる人もいれば、立派な遺書だと認識してる人もおり、この部分で遺書有無の情報がややこしくなっています。
岡田有希子さんが部屋に書き置きした手紙には、18行にわたって24歳年上の俳優・峰岸徹さんの名前と共に、彼との恋に苦しむ様子が受け取れました。
岡田さんと峰岸さんは亡くなる前年1985年のドラマ「禁じられたマリコ」で共演した関係。
「峰岸さんは会ってくれない。」
「好きか嫌いかはっきりしない。」
「思わせぶりで冷たい人。」
「でも私は好きなの。捨てないで。捨てないで…」
「あこがれていたのに急に冷たくされて悲しい」
「電話もかけてくれない」
「もう一度お会いしたかった」
「待っていたけど、あなたは来なかった」
「結婚してくれると言ったじゃない嘘つき」
「勝手なことをしてごめんなさい」
と、生前の岡田有希子さんと峰岸徹さんが交際し、結婚の約束までしていたこと、そして振られたことが書かれていました。
岡田有希子さんと峰岸徹さんの関係に纏わる詳細は別記事にも書いています。

すぐにメディアによってノートの内容が報じられ、峰岸徹さんは「未成年の女の子を弄んだ」「娘と変わらない年齢の子に手を出した」と世間から大バッシングを受けました。
峰岸徹さんは急遽、記者会見を開くことになり、そこで交際の事実を否定。
会見では、
「正直、ものすごくショックです。僕は兄貴のつもりでいたんですが、彼女はそれ以上のプラスアルファがあったのかもしれない。それが愛だったら、責任を感じます」
とコメントしており、あくまで兄貴と妹のような関係性だったことを強調しました。
恋愛経験のない岡田さんが演技を通じて峰岸さんに初恋し、男に免疫がない故に勘違いが進み自滅したいう可能性が考えられました。
死後30年後に福田専務が”爆風フライデー”で真相を語る。1回目のガス自殺は失恋、2回目の飛び降りは自責の念。
長く岡田有希子さんの死の真相が謎のままで、有る事無い事言われ続けていました。
死後30年後の2016年12月に放送された「爆報!THEフライデー」に岡田有希子さんの最期を見届けたサンミュージックの福田元専務が出演。
番組の中で福田専務は自殺の真相について語りました。
福田専務は1回目の自宅でのガス未遂は「一途な思い」とし、2回目の屋上からの飛び降りは「自責の念」と説明しました。
南青山の自宅で、ある男性への一途な思いからガス自殺。
近所の方に通報され失敗し、病院に行き手当を受け、福田専務や刑事が駆け付け、大ごとに。
事務所で話し合いになった隙に「大変な迷惑(自殺未遂)をかけて、もう生きていけない」と責任を感じ、自責の念で衝動的に飛び降りたということです。
岡田さんの母が出版した「愛をください」にも、幼少期から真面目で頑固な彼女の性格が書かれており、福田専務の説明も納得できます。












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