沖田浩之さんといえば、1980年10月〜81年3月までのドラマ「3年B組金八先生」の第2シリーズでお馴染みの俳優です。
翌年には「E気持ち」で歌手デビューしヒットを記録、その後もアニメ「キャプテン翼」のEDも担当するなど、一時は国民的なスターでありました。
しかし、沖田浩之さんは1999年に自宅で首を吊って、36歳の若さで自死するという最期を遂げています。
沖田浩之さんは遺書を書いておらず、死を決断した理由はハッキリと分かっていません。
今日は、当時から現在まで言われる、沖田浩之さんが死を決断した理由の考察、そして死の前後にあった出来事について整理してみたいと思います。
沖田浩之は2人の子供と嫁を残し36歳の若さで自死。遺書は存在せず。直近で川上麻衣子に電話
沖田浩之さんは1999年3月27日に自宅にて首吊りをして自死しました。
死因は窒息死。
二十七日午前十一時四十分ごろ、川崎市高津区梶ケ谷二ノ八ノ二、俳優、沖田浩之
=本名・置鮎広之(おきあい・ひろゆき)=さん(三六)が自宅の二階自室で、寝間着
のひもで首をつっているのを帰宅した妻の千代子さん(三五)が見つけ、一一九番
通報した。
遺書などはなく自殺原因・理由などは不明のままとされます。
第一発見者は、1995年に結婚した嫁・千代子さんでした。
沖田浩之には2人の子供がいた。何事もない日に突然と自死する
沖田さんは嫁の千代子さんと二人の子供の四人家族で、神奈川県川崎市で暮らしていました。
嫁の千代子さんは午前9時頃、上の子を幼児教室に連れて行き、帰宅すると玄関のドアにカギがかかっていたそう。
嫁が沖田さんをを呼んでも返事がなかった為、階段を登って2階の部屋に入ると、首をつって意識を失った状態の沖田さんを発見。
同市内の病院に運ばれましたが、まもなく死亡が確認されました。
遺書は見つかっておらず、神奈川県警高津署で自殺と断定されました。
家庭内では、特に何も変わった様子もなく、まさに”突然の死去”だったようです。
葬儀は4日後の31日に東京・品川区の桐ヶ谷斎場で営まれ、多くの芸能関係者・ファン・マスコミが駆けつけました。
沖田浩之は自死する直近に友人・川上麻衣子に電話。余裕がなくて素っ気ない態度で切ってしまった
沖田浩之さんは亡くなる1ヶ月前に金八先生で共演した女優・川上麻衣子さんに電話していたことが明らかになっています。
この事実は沖田さんが亡くなって18年後の2017年に出演した「芸能人が実体験を告白!最悪の一日」で彼女の口から語られました。
川上さんは3歳年上の沖田さんとの関係について、
「ヒロ君は、親友でもあるし、兄妹のようでもあった人」
「当時17歳のヒロ君は、竹の子族で。そこだけキラキラ、キラキラしてる、スターでしたね。憧れの…近づけない感じでしたよ」
とし、沖田さんと共演した際の雰囲気を語りました。
川上さんは、沖田さんの恋人役ということからファンから嫉妬の対象とされ、ファンからカミソリが送られてくるようなこともあったそう。
沖田さんはそんな川上さんのことを心配してくれてたそうです。
共演後、しばらく疎遠になるも、とあるパーティーで偶然沖田さんと再会。
沖田さんから「聞いてほしいことがある」と言われたそうですが、川上さんは「舞台で明日早いから、今度聞くね」とあしらってしまったそう。
再会して帰宅した後、改めて電話をもらうも、元気がないと言われるのが怖く、沖田さんに「どうかしたの、何かあったの」と聞かれても、「元気だよ」と冷たく答えてしまったのです。
当時の頃、川上さんは結婚生活がうまくいかずストレス状態で、パニック症を抱えており余裕がなかったことが理由でした。
それから1カ月もしないうちに、沖田さんは自死。
最後の言葉は1ヶ月前の電話での「何かあったら、ちゃんと話せよ」でした。
川上さんは沖田さんは結婚して子供もいたので驚き同時に、
「冷たくあしらってしまった。最悪でした」
「もしかしたら、具体的な悩みがあったというより、一緒にいたかったのかなって。ちょっと飲みに行ったり、ちょっと時間を過ごすだけで…」
と、少しでも一緒にいればよかったと後悔を話していました。
沖田浩之の自死までの時系列。10代でカリスマになるも華麗なキャリアを歩めず自死
1980年(17歳) | 金八先生第2シリーズで人気者 |
1981年(18歳) | 「E気持ち」で歌手デビューし40万枚のヒットを記録。青山学院大学に入学するも授業1回のみ出席し休学。 |
1982年(19歳) | 松田聖子とW主演の映画『家族の神話』の製作が内定するも実現せず |
1983年(20歳) | キャプテン翼のエンディングテーマを担当する |
1984年(21歳) | 歌手としてのラストライブを開催し音楽業を引退。以降は独立。 |
1985年(22歳) | 親衛隊などが解散。以降はアメリカに渡るなどする。国内ではメイナーな作品や脇役の仕事ばかりになる |
1995年7月7日(32歳) | 結婚し以降に2児が誕生 |
1996年9月(33歳) | 父親が自死 |
1999年3月27日(36歳) | 自宅で亡くなる。最後の出演作は同年の「サラリーマン金太郎」 |
沖田浩之の自死の理由。借金説や若くしてブレイクし干された葛藤。演技が成長せず”役者の戦いに敗れた”
36歳の若さで自ら命を絶った沖田浩之さん。
遺書が残っていなかったということで、ハッキリとした死因は分かっていません。
しかし、沖田さんの晩年の仕事ぶりや不運からも、ある程度の原因は特定されています。
自殺した理由として多く言われているのが、”借金苦”。
借金に加えて、期待に反した低迷したキャリア、俳優としての伸び悩みなどが原因だとされています。
沖田浩之は兄の連帯保証人になり4000万以上の借金。仕事場に闇金業者が来ていた?
沖田浩之さんの死の原因として最も有力視されているのが”借金”です。
推定で4000万〜8000万の借金があったとされています。
東京・品川区の桐ヶ谷斎場で営まれた葬儀では4歳上の兄が涙ながらに、
“俺に責任があるんだ。浩之には借金の連帯保証人になってもらっていた”
と兄は弟・浩之に借金を背負わせていたことを告白し、夫の借金を知らなかった奥さんはショックを受けたそう。
沖田の叔父も「沖田君が亡くなった原因は、はっきり言って借金の問題ですよ」と発言してるなど、借金苦の説は有力です。
しかし、気になるのは、なぜ沖田浩之さんが多額の借金を背負わないといけなかったのか?
沖田浩之さんの実家は神奈川県川崎市内で不動産業やゴルフ会員権を扱う会社を経営するなど、幼少期はかなり裕福でした。
しかし、ある時期から会社は兄が継承、父は堅実な商売に徹していましたが、兄は不動産業拡大など大ぶりな賭けに出て会社を傾かせ負債を背負い、弟の浩之に連帯保証人の判子を押させてしまったのです。
父は長男が会社を傾かせたことを気遣い、1996年7月に「自分の保険金で会社の負債を埋めて欲しい」と手紙を残し父は自殺。
しかし、兄は父親の保証金を会社のために使わず、負債をそのままにしていたのです。
やがて、借金の催促は保証人の沖田浩之さんの元へ行くようになり、ある時期には沖田浩之さんの仕事現場に金融業者が現れるようになったそう。
この頃から、沖田浩之さんにも借金があったのではないか?と噂され始めました。
ちなみに、死後当時はメディアには借金を隠しており、兄も記者団を前にしては”弟は関係ない(借金)”と否定していました。
その後、兄も弟の自殺から3年後の2002年4月に自ら命を絶ちました。
兄は弟に多額の借金を背負わせていた事実を表向きには最後まで認めませんでした。
隠し続けた理由は、弟への思いやりだったという見方もあれば、”自分の名誉を守る為の見栄だった”との見方もあります。
10代でブレイクも独立後は干されキャリア低迷。活動を邪魔されていた?
沖田浩之さんといえば、学生時代に原宿を中心に活動する”たけのこ族”の中心メンバーとして活躍していたことで知られます。
タケノコ族を引退後に芸能界入りを果たし、17歳で金八でブレイクし、18歳で歌手としても即成功と、10代にしてカリスマ性溢れる華麗な経歴を誇りました。
しかし、19歳の頃に内定されていた松田聖子さんとのW主演映画が中止になると、少しずつ運命の歯車が狂います。
20歳の頃こそキャプテン翼のエンディングテーマを担当するなど、第一線にいましたが、21歳で歌手業を引退し事務所を独立。
独立は、本人がアイドルではなく俳優など渋い路線を目指したかったことが理由のようです。
また、同じ1981年にデビューした近藤真彦さん擁するジャニーズ事務所の圧力が影響したと言われ、歌手活動で影響があったのでは?との考察もされています。
独立以降はアメリカに渡ったり、セレナの免許を習得したり、趣味人になったりと話題性を作る努力もしましたが、仕事は一向に増えずに”干された”という状況が長年続きました。
ちなみに沖田浩之さんと同じく、近藤真彦さんと同期だった俳優兼歌手の竹本孝之さん、俳優の堤大二郎さんも似たような境遇を味わっていました。
死ぬ直前に恩師・津川から説教。”俳優の戦いに敗れた”
後に津川雅彦さんが代表を務めるグランパパプロダクションに所属するようになると、役者の仕事が舞い込むようになりますが、キャリアは伸び悩みます。
晩年には、「歌はやらない」と断言していたアニメソングを引き受けたり、飲み屋で後輩役者に奢ってもらうなど、金銭的に苦労している様子が見られました。
生前最後は津川さんも出演していた「サラリーマン金太郎」に出演。
死後、沖田さんの葬儀の津川雅彦さんが訪れ、そこでは、
「昨日、浩之君と酒を飲んだ時、役者として悩みを抱えていた彼に厳しいことを言ってしまった」
と、亡くなる前日に叱責してしまったことを懺悔していました。
津川さんは晩年の沖田さんについて、役者としての実力が伸びていないことに対して苦言を呈しており、沖田さん自身の意欲の低下もキャリアが低迷した原因になっていたとされています。
津川さんは沖田さんの死因について、”役者の戦いに敗れたのではないか?”と語っています。
金八先生で共演した武田鉄也さんは、「今まで格好いい生き方してきた彼には辛かったのかもしれない」と、10代の頃の成功とのギャップに葛藤していたのではないか?と話していました。
沖田浩之と自殺の因縁。”家系に自死が多い”、”元カノ・山本陽子は元夫も自死”。
沖田浩之さんの自死の理由について、借金やキャリアの低迷、若い頃からの葛藤など色々な要素があるとされています。
その他にも、沖田浩之さんの環境や元交際女性との因縁も要因にあったのでは?と言われています。
沖田さんは祖父、父親、兄、本人と、僅か3代で実に4人もの自死者を出していることから、自殺を喚起させる精神疾患を生じやすい遺伝子の持ち主だったのでは?との見方も強いです。
現在の時点では自殺者試料の収集が困難なことから、自殺の遺伝学的知見の獲得は遅れていますが、「自殺」には強い遺伝要因が存在すると信じられています。
また、沖田浩之さんが若い頃に交際していた山本陽子さんとの因縁も強く言われています。
沖田浩之が交際していた21歳年上の”魔性の女”。不倫相手も自殺で亡くなる
沖田浩之さんが自死した後、過去に交際していた山本陽子さんとの関係が掘り返されました。
沖田浩之さんは1982年(当時19歳)にTBS系ドラマ「愛を裁けますか」に出演し、21歳と年上の女優・山本陽子さんと共演。
撮影が始まってすぐに演技のアドバイスを受けたり良い関係を築き、1983年1月には六本木で見つめ合いながら飲んでる姿が目撃されました。
共演から2年後の1984年には山本さんの自宅から沖田さんが出てくるところを目撃され、交際発覚。
当初は交際を否定していましたが、1986年頃に沖田さんの母が山本さんに「息子をどうするつもりですか?」と詰めたことや、山本さんが”母”と慕っていた作家の宇野さんに「沖田くんのことどうするの?」と言われていたことが分かり、交際は事実とされました。
山本さんは沖田さんのことを聞かれると「結婚する」と真剣な気持ちを訴えていたそう。
その後に沖田さんが若い女優とスクープされると、山本さんの方から離れて破局。
山本陽子さんが”魔性の女”と呼ばれるようになったきっかけは、沖田さん以前にも交際男性が自死した過去があるせいです。
山本陽子さんは1973年の31歳の頃にドラマ「白い影」で共演した既婚俳優・田宮二郎さんと不倫関係に発展。
不倫関係になった後、山本陽子さんは田宮二郎さんが購入した西麻布の高級マンションで暮らしていることがスクープされました。
田宮さんは「彼女は住んでいない。山本ファミリーに貸してるんだ」と苦しい言い訳をすしていました。
山本さんは1974年のインタビューで、
「過去に妻子ある人を好きになって、男性に対する理想像が固まっちゃったわけね。だから結婚できないんじゃないかな」
と過去形で不倫を回想していたことから、不倫は短期間で終わったとされています。
不倫相手だった田宮さんは1978年に43歳の若さで狩銃自殺。
田宮さんの自死と山本さんとの不倫は無関係でしたが、1999年にも交際してた沖田さんも続けて自死したことで、山本と男には悪縁があるのでは?と取り沙汰されました。
山本さんは沖田さんが亡くなった後、「青春の1ページとして、思い出を残しておきたい」と追悼コメントを出していました。
山本陽子さんは2024年2月20日に心不全で81歳で死去。
晩年は熱海に住み、最後まで独身を貫いたそうです。













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