昭和を代表するイケメンスターであった沢田研二さん。
俳優として活躍された晩年は、愛妻家の良いオジサンのイメージが強くありました。
しかし、実は沢田研二さんがその後の嫁・田中裕子さんと結婚する前には壮絶な不倫騒動がありました。
今日は、沢田研二さんの最初の嫁と、その後の田中裕子さんとの略奪不倫について書いてみたいと思います。
沢田研二の初婚は7歳年上の伊藤エミ。
沢田研二さんの最初の結婚は1975年です。
当時、27歳だった沢田研二さんは、7歳年上の伊藤エミさん(ザ・ピーナッツ)と結婚しました。
名前 | 伊藤エミ |
出身地 | 愛知県常滑市 |
生年月日 | 1941年4月1日 |
没日 | 2012年6月15日(71歳) |
2人馴れ初めは同じ渡辺エンターテイメントに所属していた縁です。
1971年から1972年までに、当時20歳だった沢田研二さんが伊藤エミさんが所属する”ザ・ピーナッツ”に「東京の女」ら4枚のレコードの楽曲を提供したことでした。
出会った時点では、伊藤エミさんは芸能キャリアが10年以上上の格上の女性で、ジュリーはさんは新人な上に7歳年下のアイドルでした。
2人は1969年には交際を開始し、伊藤エミさんが芸能界引退を宣言した1975年に婚約しました。
結婚までの交際期間は6年でした。
伊藤エミさんは引退を発表した際、「惜しまれる時に辞めたかった」とコメントしており、ラストコンサートとなった1975年4月5日の公演では渡辺エンターテイメントのタレントほぼ全員が鑑賞し、最後を見届けました。
伊藤エミが引退してすぐに結婚。比叡山でファン2万を無料で招待し結婚披露ライブを実施!
沢田研二さんは伊藤エミさんと1975年5月18日に婚約し、6月4日に入籍しました。
当時、披露宴を帝国ホテルで大物政治家などを呼んで盛大に行う予定でしたが、当時のプロデューサーであった木村英輝氏が「それはカッコ悪い。69年にジョンとオノがインベッドしてるのに、そんな布施明や森進一と張り合うようなことはするな」と制止。
その代わり、木村氏は「比叡山でファンを呼んで挙式とコンサートをしたらいい」と発案しました。
そして本当に2万人のファンを無料招待し、比叡山で結婚披露コンサートを実施したのです。
比叡山のスキー場に幅50メートル縦15メートルの特設ステージを開設し、近所の鉄道会社やバス会社に協力してもらう徹底ぶり。
40台のアンプ、150個のスピーカー、警備員100名、アルバイト300名、京都府警から警察100人を派遣と、街を巻き込んで盛大に行われました。
当時の結婚コンサートの様子は、LPレコードの写真にカラーで多数紹介されています。
コンサートの途中で沢田さんが「僕の妻です」とウエディングドレスを着た伊藤エミさんを手を引いて紹介すると、会場からは悲鳴と歓声が入り混じった奇声が発されたそうです。
白いユリの花束を抱えた伊藤エミさんは、涙を流して感激。
結果的に結婚披露コンサートは大成功を収め、同ライブは昭和の芸能界の伝説となりました。
結婚して4年後の1979年に長男・澤田一人が誕生
1975年に結婚した沢田研二さんと伊藤エミさん。
結婚手前に芸能界を引退した伊藤エミさんは、その後は公に姿を現すことはなく、しっかりと家庭に入って沢田研二さんとの家庭を守りました。
そして、結婚して4年後の1979年3月に第一子である長男の澤田一人さんが誕生しました。
ジュリーに息子が誕生したということで、マスコミも夫婦の生活を追い、コンスタントに子供に纏わる報道も出ていました。
沢田研二が田中裕子と堂々の不倫。元ファンで映画共演で出会う
1975年に伊藤エリさんと結婚し、1979年には第一子が誕生した沢田研二さん。
しかし、その数年後には日本の芸能界を揺るがす不倫騒動を起こし離婚することとなります。
沢田研二さんの不倫の相手は、7歳年下の女優・田中裕子さんです。
名前 | 田中裕子 |
出身地 | 大阪府池田市 |
生年月日 | 1955年4月29日 |
出身大学 | 明治大学文学部 |
2人の出会いは1982年4月で、 再結成したばかりの沢田さん擁する「ザ・タイガース」のコンサートを田中さんが見に行き、対面したのが最初でした。
当時、田中さんが26歳で沢田さんは33歳でした。
1982年に「男はつらいよ〜花も風も寅次郎〜」で共演を果たすと、急接近しました。
映画で共演した翌年の1983年には交際がスタートし、沢田研二さんが田中裕子さんのマンションに通う姿や、地方のコンサートで2人でいるところが目撃されるようになります。
さらに、田中裕子さんが歌手として初コンサートを行うに際にも、沢田研二さんが音楽監督を務めるなど、公私共に関係を深めていきます。
田中裕子と沢田研二は堂々と不倫。略奪宣言までする?
沢田研二さんと田中裕子さんの不倫関係はマスコミにも報じられ、世間では大騒ぎでした。
それでも田中裕子さんは「必ず彼と一緒になる」と強気の発言。
沢田研二さんも揃って不倫を認め、彼女に対して肯定的な発言をするなど、堂々の不倫宣言をしました。
1985年に沢田研二さんがデビュー時から在籍してきた渡辺プロダクションとの契約を終えると、田中裕子さんも所属していた文学座を退団。
この2人の決断は、不倫に対するケジメと覚悟だったと言われています。
驚くべきは、沢田研二さんが友人に、
「妻(伊藤エミ)は私の大ファンでプロダクションの社長が社の功労者である妻から相談を受けて僕も断れなくて結婚した。
「本当は大恋愛の末に結婚するのが夢だった。」
と発言していたことです。
また、沢田さんの古くからの友人が取材陣に対して、
「ジュリーにとっての初恋は彼女(田中裕子)」
との発言もピックアップされ、一部ファンは沢田研二さんの不倫を肯定的に見守りました。
沢田研二は田中裕子と1987年に略奪婚。慰謝料は総額18億で芸能界最高!
壮大な結婚コンサートを実施した末に結婚した田中裕子さんとの結婚が、そもそも本望ではなく、社長に頼まれただけだったというのは驚きでした。
沢田研二さんは1986年に判を押した離婚届を家に置いて家を出ていき、1987年に正式に離婚となりました。
ちなみに沢田研二さんと伊藤エリさんの結婚が成立した同年1987年に、2人の結婚を画策した渡辺社長は59歳の若さで亡くなっています。
渡辺社長の葬儀には、沢田研二さんと伊藤エミさんも共に出席されていました。
慰謝料は豪邸やテニスコートを含み総額18億1800万
妻子を捨てて不倫相手の元に去ってしまった沢田研二さん。
当時の沢田研二さんの不倫行為は世間からも「あり得ない」と大バッシングでした。
離婚後に沢田研二さんが伊藤エミさんに対して支払った慰謝料は総額18億1800万と、芸能界の歴史の中でも最高の金額でした。
慰謝料の内訳には、世田谷区の自宅やテニスコート、伊豆の別荘なども含まれていたそうです。
沢田研二さんは、その後にインタビューで世紀の大離婚について振り返り、支払った慰謝料よりも一人を幸せにできなかったことの方が痛かったと語っています。
離婚後の伊藤エミは静かに暮らす。2012年に急病で死去
離婚後の伊藤エミさんは、息子と妹のユミさんと3人で世田谷区で静かに暮らしました。
苗字は「澤田」のままですが、自宅の表札は本名の「伊藤」だったそうです。
子供の苗字が変わるのが可哀想とのことで、苗字はそのままにしていたようです。
離婚後に”ジュリーの元嫁は現在は不動産で成功してる”という噂がありましたが、実際は慰謝料の一部で購入したマンションを賃貸に充て生活費を稼いでいただけのようです。
公の場には一切登場せず、目立たない生活を続けました。
2012年春に転倒により腰を強く打ちつけると、その後の病院での精密検査で進行が進んだ癌が見つかり、その僅か1ヶ月後の2012年6月15日に71歳で亡くなりました。
葬儀などは親近者のみで行われ、沢田研二さんらは出席せず、死後にコメントも出しませんでした。
一緒に住んでいた妹の伊藤ユミさんは、姉が亡くなった2年後の2014年に思い出の自宅を売却しました。
伊藤エミさんが亡くなった4年後の2016年には、妹のユミさんも75歳で亡くなりました。
その後の1人息子の行方は不明です。