
フォークロックの大御所である浜田省吾さん。
浜田省吾さんは70年代にデビューして、現在までにサングラスをトレードマークにしてます。
デビューしてから一度も素顔をファンの前に出したことがなく、私生活も謎が多いです。
音楽メディア以外に出ることも稀で、浜田省吾さんのプライベートな情報は少ないです。
今日は謎の多い浜田省吾さんの子供時代から学生時代、下積み時代、また過去に数回だけ流出した素顔の写真について紹介したいと思います。
浜田省吾は広島出身。父は元特高警察官。子供時代の素顔は公式に公表
ミュージシャンとして活動が始まった頃にはサングラスをトレードマークにしていた浜田省吾さん。
絶対に素顔を見せたくない訳ではなく、公式から出したコンテンツなどで少年時代、青年時代のサングラス無しの素顔を確認することができます。
名前 | 浜田省吾(はまだ しょうご) |
愛称 | ハマショー |
生年月日 | 1952年12月29日 |
出身地 | 広島県竹原市 |
活動期間 | 1974年〜 |
所属事務所 | ホリプロ〜ロードアンドスカイ |
職業 | ミュージシャン・シンガーソングライター・作詞家・作曲家・ドラマー。 |
血液型 | O型 |
出身小学校 | 広島県江田島町鷲部小学校 |
出身中学 | 呉市立二河中学校 |
出身高校 | 広島県立呉三津田高等学校 |
出身大学 | 神奈川大学法学部中退 |
浜田省吾さんは1952年に広島県で生まれ。
家族は両親に2人の姉ということで、女性が強い家庭で育ちました。
父は戦前は特高警察官で、戦時中は広島原爆の後に救援隊として広島市に入り二次被爆を受けており、浜田省吾さんは被爆二世ということになります。
父は戦後に地方警察署に勤務したことから転勤が多く、その影響で3歳の頃から尾道市、廿日市市、広島市佐伯区、広島市南区元宇品と引越しを繰り返しました。
幼少期は友達が少なく空想遊び。早くからビートルズにハマり学業は優秀
子供の頃の浜田省吾さんは転校が多かった影響から、友達が少なく、1人で空想を繰り返して遊んでいたようです。
父が剣道をやっていた影響で、少年時代は剣道で精神を鍛えられました。
友達が少ないことは悪いことばかりでなく、小学生にしてビートルズなどの洋楽にハマりました。
小学生にして学校のホウキをギターにして遊んだり、ビートルズの雑誌の切り抜きをノートに貼り付けるなどしていました。
転校を繰り返した浜田省吾さんは、最終的に4年生から通った広島県江田島町鷲部小学校を卒業しました。
江田島にある「山田バス停」は浜田省吾さんの子供の頃の思い出の場所として有名です。
デビュー後に浜田省吾さんが地元を訪れ「山田バス停」のベンチに腰掛け、帰宅中の小学生を見て「あのくらいだったんだろうね・・・・・時間って不思議だね」と回想していそうです。
また地元を、
「今、振り返ってみて、9歳から13歳までの子ども時代を海もあり、山もある江田島で過ごせたのは幸運なことでした。父と登った古鷹山、友達と泳いだ海、足を切ったカキのイカダ。たくさんの思い出があります。そしてそのサウンドトラックとして聞こえてくるのがビートルズなのです。」
と振り返っており、父と山を登ったりと小学生高学年から中学生の最初まで自然と触れ合うことも多かったことがわかっています
中学時代も1度は転校し、最終的に卒業したのは呉市立二河中学でした。
中学生になった頃には毎日ラジオで音楽を聴いていたそうで、モータウン・サウンド、ビーチ・ボーイズ、ヤング・ラスカルズなど音楽の視野がグッと広がりました。
学業優秀で進学校に進学。野球部を退部するも本格的に音楽を始め学生運動やデモにも参加
浜田省吾さんは学業が優秀で、中学を卒業した後は偏差値64の進学校である広島県立呉三津田高等学校に進学。
高校では誘われて野球部に入部し、同校の先輩でプロ野球界のレジェンド・広岡達郎さんと同じサードを守りました。
野球は3年で辞め、その後はフォークソング部に所属し本格的に人前で演奏することをスタートさせました。
その他にも新聞部に所属し、生徒会役員も務めるなど学校行事に積極的に関わりました。
学生運動にも参加し、当時盛んだった広町黄幡弾薬庫の弾薬移送反対デモにも被曝2世という想いから参加しています。
頑張って入学した名門校で様々な行事に参加していましたが、学習の環境が馴染めず、学力は一気に低下してしまったそう。
結果、受験には失敗して1浪することとなりました。
神奈川大学を1年で中退。現在の嫁に音楽活動を始めこの頃から素顔の写真は無くなる
1浪した浜田省吾さんは広島県西端の工業都市・大竹市に転居し、広島市の予備校に通いながら受験勉強に励みました。
この頃、広島平和記念式典に出席し、佐藤栄作首相の政治に対する激しい反対運動にも参加しました。
その他にも浪人時代はレッド・ツェッペリンの広島公演を観に行ったり、ボブ・デュランを聴くようになるなど、その後の浜田省吾さんの将来に繋がる出会いが多くありました。
そして、法律を勉強して世の中と戦いたいと気持ちから神奈川大学の法学部を受験し見事に合格。
キャンパスは神奈川県だった為に長年親しんだ広島を離れ引越し。
大学のキャンパスが白楽だったため、2駅隣の菊名駅の近くに住みました。
フォークソング部に所属し、華やかなキャンパスライフを夢見ましたが、当時は学生運動が盛んで穏やかに過ごすことはできなかったそうです。
浜田省吾さんは実家から仕送りをもらっていましたが、「こんな時期に仕送りをもらってる場合じゃない」と、自ら自動車工場や道路工事やドカチンのバイトをして自立した日々を過ごしました。
大学生にしてOLの女性と交際し現在の嫁に!1年で退学し音楽の道へ
フォークソング部に入学するも、学生運動やバイトの泥臭い毎日を送っていた浜田省吾さん。
仲間たちとバンド「愛奴」を結成し、音楽活動も本格的になっていきました。
当時の浜田省吾さんは友人ら5人と菊名駅近くのアパートで暮らしていましたが、そのアパートの近くで現在の嫁さんと出会います。
嫁との出会いや詳細は別記事に詳細を書いてます。
当時の嫁は、浜田省吾さんが音楽で成功する為に大学を辞め、長く吉田拓郎さんのバッグバンドを務めるなど売れない時期もそばで支え続けました。
ちなみに音楽活動を始めた時点で浜田省吾さんはサングラスを着用するようになり、当時の浜田省吾さんのサングラスなしの写真は1つもありません。
現在の嫁だった彼女とは、浜田省吾さんがメジャーで成功した後に無事に結婚しました。
嫁と素顔のツーショットを週刊誌に撮られる。無断でサングラス無し写真を掲載され激怒
無事に音楽で成功した浜田省吾さんですが、有名になった後も自分の素顔を世の中に公表することがありませんでした。
ただ、一度だけ、週刊誌によって大人になった後の素顔を世の中に出されたことがあります。
それは結婚して10年目の1987年8月の出来事です。
浜田省吾さんが嫁さんと港区で買い物をしてる姿を撮影。
写真に収められていた浜田省吾さんはサングラスをつけておらず素顔。
週刊誌は素顔の浜田省吾さんと奥さんをモザイクや目線も入れずにそのまま掲載したのです。
これには浜田省吾さんも当然激怒されました。
この1987年に撮影され世に出た写真が、浜田省吾さんの素顔の写真の中で最も新しいとされています。