森田童子の素顔(本名”美乃生”)。夫・前田亜土と叔父”なかにし礼”との関係
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森田童子さんといえば人気ドラマ「高校教師」の主題歌「ぼくたちの失敗」がヒットしたことで知られるフォークシンガーです。

主に70年代の中盤から80年代の前半にかけて活動しましたが、存在が世間に知られるようになったのは引退後でした。

活動していた時代から素顔や本名を非公開にしており、世に知られるようになった頃には引退状態。

情報が極端に少ない彼女ですが、2018年の死後、色んなメディアから些細な情報が集まるようになりました。

今日は謎多きカリスマシンガー・森田童子さんについてわかっていることについて整理してみたいと思います。

森田童子の本名は”中西美乃生”。青森出身の次女。叔父”なかにし礼”の「血の歌」で出生が明らか

長く謎多きシンガーとして知られていた森田童子さん。

出生や私生活に纏わる基本情報はショットアウトされており、ファンに与えた濃厚な情報は1980年11月28日の北海道(札幌市教育文化会館大ホール)でのライブ会場で配布された冊子「森田童子ラフスケッチ」書かれた、

1952年に青森で生まれ、1968年 - 1970年の学園闘争の最中に高校生活を送り、友人が逮捕されたことをきっかけとして、1970年に高校を中退。

1972年の夏、ひとりの友人の死をきっかけに歌いはじめた。」

という情報だけでした。

その後、森田童子さんが2018年に66歳の若さで亡くなると、3年後の2021年に小説家”なかにし礼”さんが15歳年上の兄・正一さんの人生について回想した「血の歌」を毎日新聞から出版。

なかにし礼さんの15歳年上の兄・中西正一の次女が森田童子さんであることが明かされました。

つまり、森田童子さんにとって”なかにし礼”は叔父で、”なかにし礼”にとって森田童子は姪っ子だったということです。

「血の歌」では、森田童子さんが1953年1月15日21時に青森県青森市で生まれたこと、本名が「中西美乃生(みのぶ)」であることが書かれました。

森田童子には姉がおり、下に弟がいること、0歳で東京都品川区に移り住んだことなど、今まで知られていなかった森田童子さんの出生の真実が綴られました。

死後に判明した森田童子の出身地や本名・家族関係の情報

本名はなかにし礼さんの家系ということで苗字は旧姓「中西」で、下の名前は「美乃生(みのぶ)」です。

結婚後に名前は「前田美乃生」に変わっており、デビューした時点で本名は前田美乃生でした。

出生は青森県青森市ですが、0歳の内に東京都品川区に転居し、育ちは東京都ということになります。

高校生の頃に父と別居し、20歳までに恋人であったイラストレーターの前田亜土さんと同棲を始め、デビューまでに結婚しています。

芸名 森田童子(どうじ)
本名 前田美乃生(みのぶ)※旧姓”中西”
生年月日 1952年1月15日21時
没日 2018年4月24日(66歳没)
出生地 青森県青森市
出身地 東京都品川区
血液型 AB型
兄弟姉妹 姉、弟。(森田童子は次女)
ジャンル フォーク
活動期間 1972年〜1983年
父親 中西正一
旦那 前田亜土(元マネージャーでイラストレーター)
著名な親戚 なかにし礼(父の弟)

森田童子は幼少・学生時代は経済的に苦しかった。父は倒産を繰り返し借金まみれ

森田童子の祖父母は元々は満州で酒事業を成功させ、自宅では毎晩のように飲み会が行われるなど地元の名士として知られてました。

しかし、第二次世界大戦が始まると、祖父は強制労働の末に亡くなり、当時21歳の長男・中西正一が家族を養わないといけない状況になり、生活は困窮しました。

森田童子さんの父である中西正一の詳細については別記事にも買いています。

森田童子の父・正一はニシン事業で一時期成功しますが、欲を出してより高くニシンが売れる秋田県に船を進めるも、荒波に飲まれニシンを失うという失態を犯しています。

ニシン事業を始める際、実家を担保に入れていたため、事業の失敗で住む家を失い、一家は一時期はバラバラになります。

その後に母が病気になったことで、再び家族全員で青森に住み、その時期に次女である森田童子(美乃生)が誕生しますが、青森では古着屋とバーの経営を続けて失敗し、すぐに東京都に上京します。

このため、森田童子は青森生まれでありますが、0歳の内に東京都で生活を送っているので、青森生まれ東京都出身ということになります。

父の中西正一は倒産を繰り返し家計は火の車。森田童子と”なかにし礼”は辛い学生時代を過ごす

東京都品川区に移住した後は、父は営業の仕事をしますがすぐに退職、その後に沢山の事業に手を出しますが、いずれも失敗で借金が膨らみます

当時、15歳年下の弟・なかにし礼は高校生で、兄が学費を滞納したり通学定期が買えず休学するなど、”養子に出してくれ”と訴えるほどに悲惨な生活を送ります。

なかにし礼曰く、まだ幼かった次女の森田童子は、父の借金の影響をモロに受けており、幼少期から高校まで学校のイベントや行事では良い思い出がなかったはずだと回想しています。

なかにし礼は高校を卒業してすぐに兄・正一の元を離れ自立し、森田童子が中学生になる頃には作詞家として成功し、森田亜童子が高校生になる頃には印税で中野に大きな自宅を建てて再び同居することとなります。

森田童子となかにし礼の関係。音楽を教え旦那・前田亜土と出会わせた

森田童子さんが青森で生まれた当時、助産師を呼びに行ったのは叔父”なかにし礼”さんでした。

東京に移住して森田童子が4歳になるまで叔父”なかにし礼”と同居。

叔父”なかにし礼”は高校を卒業してすぐに自立しましたが、売れっ子作詞家になってからは母と兄・正一家族(森田童子)などを気遣って中野に大きな家を買って、自身の弟子を含めて大所帯で再び同居することとなりました。

15歳にして再び叔父と同居することとなった森田童子ですが、当時の叔父はレコード大賞を受賞したり、関わった曲が紅白で3曲も歌われたりと、業界の最先端をいく音楽家でした。

そんな偉大な音楽家である叔父”なかにし礼”と同居していた森田童子さんは、叔父から作詞、ピアノやギターの楽器などを習いました。

叔父” なかにし礼”は森田童子のことをすごく可愛がり、自分なりの秘密などを語り合う仲になっていたそうです。

また、なかにし礼と一緒に仕事をした関係で自宅に出入りしていたイラストレーターの前田亜土さんと森田童子さんは恋仲になります。(後に結婚)

森田童子さんにとっての”なかにし礼”さんは音楽の師匠であり、旦那と出会うきっかけになったキューピットでもあるのです。

父・中西正一は叔父”なかにし礼”に借金を被せ夜逃げ。森田童子は恋人と同棲

尊敬できる叔父と暮らしていた森田童子さんですが、自身の父親・正一は叔父を利用して金銭的に苦しめました。

叔父の実印を勝手に使って自分に有利な保険を契約したり、会社を作って失敗したり、最終的には夜逃げして叔父に借金6億円を背負わせるという暴挙に出ています。

叔父は森田童子の父が残した借金を返すために、みんなで住んでいた中野の自宅や保有していたビルを売却するなど対応に追われます。

森田童子は”もう父親なんていい”といった具合に、当時交際していた前田亜土と同棲を始め、親元を離れました。

森田童子が素顔を隠し続けた理由。私生活では前田亜土と結婚し国分寺に自宅を購入

森田童子さんの運命が変わったの間違いなく15歳以降です。

売れっ子作曲家の叔父と同居し音楽の魅力を教わり、さらには前田亜土さんと出会いました。

高校生の頃は学生運動が盛んな時期で等身大の10代を楽しめず、高校は卒業せずに友人が逮捕されたことを理由に1970年に中退

1971年頃に父・中西正一は、恋人だった前田亜土を社長に、取締役をなかにし礼にして芸能事務所「アド・プロモーション」を設立。

1972年の19歳の頃い友人を亡くし、このことをきっかけに本格的に音楽活動をスタートし、恋人だった前田亜土が社長を務めるアドプロモーションからもバックアップを受けます。

1974年秋に21歳でのレコードデビューすることとなりましたが、同年にアドプロモーションが風吹ジュンさんの二重契約が「誘拐事件」として問題になり週刊誌に取り上げられました。

その際、「社長の前田亜土の妻は”なかにし礼”の実兄の次女」と書かれていたため、デビュー前までに森田童子は結婚していたことがわかっています。

音楽活動の際、旦那の前田氏をマネージャーとしました。

森田童子は本名など自身に纏わる詳細を非公開に、常にサングラスをかけて素顔を隠して活動し、メジャーデビューも嫌がりました。

レコーディングなどに関わった音楽仲間の前でもサングラスは外さず、頑なに素顔を人に見せませんでした。

森田童子が自分のことを教えたくなかった理由の1つには、業界に影響力を持つ”なかにし礼”さんの忖度の元で活動を開始していた事実を知られたくなかったのでは?と考察できます。

引退後は国分寺に自宅を30年ローンで購入し主婦になる。「ぼくたちの失敗」がヒットすると父が金銭無心の動き

森田童子さんは1984年を最後に歌うことを辞めました。

歌手活動を引退する前年の1983年には東京都国分寺に当時にして高金利なローンでマイホームを購入しています。

わざわざローンを組んで自宅を買った背景には、自分の預金を父・正一に無心されることを恐れたのでは?との考察ができます。

森田童子のラストライブはとても静かで、引退後は一度も表舞台に出てきませんでした。

亡くなった際のニュースでは”主婦をやっていた”との情報があったので、31歳という年齢だったことから、この頃に妊娠出産をして子育てに忙しかったのでは?と考えられます。

引退から10年後の1993年にドラマ「高校教師」の主題歌に森田童子の「ぼくたちの失敗」が起用されヒット

その際、父・正一からすぐに電話が掛かってきており、明らかに印税を無心しようとしました。

しかし、森田童子が「印税ならまだ放ってないわよ」というと、父・正一は絶句したようです。

「ぼくたちの失敗」がヒットした翌年1994年には旦那の前田亜土さんを代表取締役に、自身の印税を守る会社を設立するなど、最後まで父・正一の金銭無心を牽制しました。

結局、父の正一は1997年に74歳で亡くなり、森田童子は42歳にしてようやく毒親から解放されました。

ちなみに、父の死後、借金を2億残していた影響から母は死後絶縁しており、森田童子や姉・弟が借金を背負わなくても良いように迅速に遺産相続破棄の手続きが行われたそうです。

森田童子の死因は精神的なショックが原因?2009年に最愛の夫・前田亜土が死去

森田童子は高校生の頃に、自分の夫となる前田亜土さんと出会いました。

馴れ初めは、叔父”なかにし礼”が前田亜土さんと一緒に仕事をした縁から、森田童子と一緒に住む自宅に彼が出入りしていたことだと思われます。

13歳も年の離れた2人ですが、 森田童子さんが懐いていた叔父”なかにし礼”と前田亜土さんはちょうど同じ年で、むしろ心を開きやすい包容力があったと想像できます。

前田亜土さんと森田童子は10代から交際し、歌手活動が本格的にスタートする頃には結婚し、活動中はマネージャーとして彼女を支えました。

本名 前田正春
芸名 前田亜土
出身地 北海道阿寒
生年月日 1939年3月
没日 2009年10月31日
出身大学 武蔵野美術大学西洋画科卒
職業 イラストレーター。森田童子のマネージャー。

森田童子は夫・前田亜土が死去して精神的にキツかった?66歳の若さで心不全で死去

森田童子さんは引退前年の1982年(30歳)に30年ローンで国分寺にマイホームを購入。

1983年の31歳で歌手活動を辞め、その後は子供を産んだとされます。

引退した10年後の1993年に「ぼくたちの失敗」がヒットし脚光を浴びますが、当時もメディアには登場せず、私生活の詳細は明かされませんでした。

その後に再収録のアルバムを国分寺の自宅で収録するなど、ちょっとした活動は行いましたが、あくまで一般人としての人生を大切にしていました。

JASRACの会報にて、2018年4月24日に66歳の若さで死去していたことが知らされると、ファンはショックを受けました。

死因は”心不全”でした。

当時の報道の中で音楽関係者が「体調を崩して2017年から入退院を繰り返し、退院後間もなく逝去した」と発言していたことから、直前までは元気で、体調を崩してからはすぐだったことが明らかになっています。

夫の前田亜土は2009年10月に死去し、2010年に近況として「近しい人物の死去による精神的ショックと、自身の持病により活動が困難な状況」との情報がありました。

このことから、森田童子さんが元々体が弱かったこと、そして13歳年上の旦那が亡くなったショックから精神的にきていたことが明らかになっています。

森田童子の経歴年表。年齢と出来事

時期 出来事
1952年1月15日(誕生) 青森県青森市に次女として誕生。
1952年〜1953年(0歳) 0歳のうちに父の仕事の都合で東京都品川区に引っ越し。
1968年(15歳) 叔父”なかにし礼”が中野に購入した自宅で再び同居。作詞や楽器を習う。
1968年〜1970年(15歳〜17歳) 高校入学〜中退。学園戦争中に高校生活を送る。友人が亡くなったことをきっかけに歌い始める
1971年(18歳) 父・正一の会社が倒産。恋人・前田亜土と同棲を始める。
1972年夏〜(19歳) 友人の死をきっかけに音楽活動スタート
〜1974年(〜23歳) 恋人の前田亜土と結婚
1975年10月(22歳) 「さよなら ぼくの ともだち」でレコードデビュー。
1982年3月(30歳) 国分寺に30年ローンで一軒家を購入
1983年(31歳) 歌手活動を引退
1993年1月(41歳) ドラマ「高校教師」の主題歌に「ぼくたちの失敗」が起用されカルト的人気を誇る
1994年3月(41歳) 森田童子の著作権を管理する(有)海底劇場を設立。代表は夫の前田亜土。
1996年10月(43歳) 父の正一が72歳で死去
2003年1月(51歳) 「高校教師」が上戸彩主演でリメイクされ再注目を浴びる。同年発売のベスト盤に収録された国分寺の自宅で収録。
2009年10月(57歳) 夫の前田亜土が71歳で死去
2018年4月24日(66歳) 死去
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