尾崎豊さんといえば、1988年に一般人女性の繁美さんと結婚。
結婚後に斉藤由貴さんとの不倫がスクープされ、その僅か数ヶ月後に死去されました。
亡くなった後、尾崎豊さんの嫁・繁美さんは息子と共にアメリカに渡り、亡くなる直前までの尾崎さんの情報は長く謎でした。
しかし、現在では繁美さん本人の発信で尾崎豊さんとの出会いから結婚までの詳細が語られ、結婚して亡くなるまでの様子が知られるようになりました。
今日は、尾崎豊さんと嫁・繁美さんの結婚生活についてわかっていることについて整理してみたいと思います。
尾崎豊と嫁・繁美の極秘結婚と復活までの時系列
1988年5月12日2時55分 | 極秘入籍。執行猶予中だったので尾崎豊の実家で新婚生活スタート |
1988年5月17日 | 料亭で身内のみで披露宴 |
1988年5月終わり | 6泊7日の新婚旅行。尾崎豊が繁美さんの女友達にキスし、ニューヨークで新婚旅行をやり直すことに。 |
1988年6月頃 | テレビ生出演に向けて夫婦でトレーニング。実家を出て板橋のマンションに住む。出演したTVは伝説回になる |
1988年8月 | 2度目の新婚旅行でニューヨークに訪れる |
1988年9月 | 東京ドームでの復活ライブを成功さす。ライブ直前には「中止にする」と八つ当たり。ライブ後に繁美さんが入院 |
尾崎豊は嫁・繁美と1988年5月12日に関係者・友人に内緒で入籍。結婚当時は執行猶予中
尾崎豊さんは繁美さんと渡米前の1986年の5月に出会い、翌年1987年の帰国後に同棲をスタート。
精神病院への入院や逮捕を乗り越え、執行猶予中の1988年5月12日の大安に入籍。

出会いから結婚までのことは別記事に詳細を書いています。
婚姻届を提出した時間は2時55分で、尾崎さんが「2人でゴーゴー」という語呂合わせにこだわって決定しました。
結婚は仕事の関係者や尾崎さんの友人らには知らせず、結婚式など人を呼んでのお祝いは一切ありませんでした。
婚姻届けを提出した後、2人で白山の豆腐料理の専門店でに立ち寄ってお祝い。
乾杯してすぐに執行猶予中の歌手と20歳の一般女性の夫婦というハードな状況を客観視し、2時間も無言という重たい雰囲気になったそう。
尾崎豊と嫁は結婚式せず。入籍した日の夜にハウンド・ドッグの大友康平さんの結婚披露パーティに参加
めちゃくちゃな状況で尾崎さんのゴリ押しで結婚したということで、友人・知人からのお祝いもなかった2人。
むしろ、入籍日の夜は日清パワーステーションで行われたハウンド・ドッグの大友康平さんの結婚披露パーティに参加。
出るつもりは予定はなかったものの尾崎さんの実家に何度も電話があり、大友さんが”来て欲しい”とのことで、繁美さんが「家にいるよりシャンパンでも飲みたいな」と言い、尾崎さんも「自分たちが結婚した日に、人の結婚式に出るのも俺たちらしいかもな」と参加。
大友さんの結婚パーティに参加すると、同業の内田裕也さん、アン・ルイスさん、玉置浩二さんらが駆けつけ盛大に祝福し、ウエディングドレスを着た輝く花嫁の姿。
繁美さんが「綺麗!」と言うと、尾崎さんは「ウエディングドレスを着せてあげられなくてごめん」と言ってくれたそう。
そこで繁美さんは尾崎さんに「いつか着せてね」と伝えると、耳元で「うん、絶対に約束するよ」と約束してくれたそう。
また、結婚パーティの二次会は、まさかの2人が出会った日の最後に訪れた西麻布の『レッドシューズ』。
2人が出会った際のレッドシューズの店内にはヤンチャな若者が集っていましたが、披露宴の二次会にいたメンツはほとんどが落ち着いた既婚者で、余裕や寛容さのようなものが伝わり、そこで自分らも落ち着いた関係になったと実感が湧いたそう。
ちなみにテンションが上がった尾崎さんは「俺たちも入籍したこと社長に言おう」と言い出し、繁美さんは仮にここで結婚発表して歌でも歌い出したら主役を奪ってしまうのではないか?と焦って阻止したとか。
偶然にも大友さんが「今夜は俺が主役だ。尾崎には歌わせない!」と冗談混じりに言ったことで、発表を凌げたそう。
そんな時も、尾崎さんは耳元で「この店で今、一番幸せなのは俺たちだから」と囁き、ウイスキーでこっそり乾杯、繁美さんは十分に幸せな気持ちに浸れたとか。
最後、主役の大友さんが尾崎さんに「次は尾崎の番だな」と言い、その言葉に頼もしく笑顔で返したそう。
入籍の5日後に両家族のみで料亭で披露宴
仕事の関係者や友人らに内緒で結婚した尾崎豊さん。
入籍から5日後の5月17日に築地の料亭「つきじ植むら」で身内のみで披露宴を行いました。
繁美さんは「これからの人生、私の隣に豊がいる」と思うだけで幸せと思えたそう。
料亭で尾崎さんは繁美さんに、
「夫婦って赤い糸で 結ばれているって言うけど、赤とは限らないよね。だってそれぞれの夫婦に色があるからさ」
と言うも、繁美さんは未だに自分らの色が想像つかないのだとか。
料亭ではお互いの家族がいる中、2人はずっと手を繋ぎラブラブだったそうです。
尾崎豊の実家で24時間一緒。新婚旅行で挙式ごっこも他の女にキス
新婚生活は尾崎豊さんの朝霞の実家でスタートしました。
当時の尾崎さんは釈放後で執行猶予中で身元引受人であるお父さんの近くに住んでいなければならなかったからです。
この頃の尾崎さんは活動が制限されていたことで、繁美さんとはお互いに何も言わなくても考えてることが分かるほど24時間ずっと一緒にいました。
そんな生活でも尾崎さんは朝からピアノに向かい、常にノートや手帳を持ち歩いて様々なフレーズや感じたことをメモ、夜はギターを抱いたまま眠りにつくという、流石の音楽人ぶりを見せていました。
尾崎さんの実家の母は近所に畑を借りていたため、繁美さんは畑から採れた野菜で料理したり、穏やかな田舎暮らしを堪能していました。
6泊7日の新婚旅行。尾崎が繁美の友達にキス。チャペルで誓い
入籍した5月の終わりに、6泊7日の名古屋、大阪、神戸を巡る新婚旅行に出ました。
名古屋の旅行では、当時人気だった”小比類かほる”のライブがあり、繁美さんが「観たい」と言うと、尾崎さんが「チケット取ってやる」とイベンターに「尾崎豊だけと2枚よろしく」と電話。
しかし、相手はイタズラ電話だと思い切ってしまい、繁美さんに「本人だと分かるような話したら?」と助言を受け、2回目の電話で共通の知人などの話をして見事にチケット獲得。
担当者と会場の前で待ち合わせをした際、本物の尾崎豊が現れたので、かなり驚いていたそうです。
神戸では異人館や港町を堪能し、「おのぼりさん」も体験、夜は繁美さんの友人と彼氏と4人で遊び、全員ベロベロ。
その際、尾崎さんが繁美さんの友人にキスしてしまい、繁美さんは咄嗟に2人を突き放すのではなく、友人の彼氏の目を覆ったそう。
次の日の朝、繁美さんは「せっかくの新婚旅行にケチがついた」とショックを受け無言でいると、尾崎さんは「じゃあ、次はニューヨークで新婚旅行をやり直そう」と約束してくれ事が収まったそう。
また、泊まっていた六甲山ホテルでは庭にチャペルを発見。
そこで、尾崎さんは野の花で冠を作り繁美さんの頭に乗せ、
「Do you promise me to never ever stop loving me in your life?(君の一生をかけて僕を愛すると約束してくれる?)」
と問いかけ、繁美さんは、
「Yes, I do(誓います)」
と答え、2人だけで誓いを立てました。
この際、ダイヤの婚約指輪を一度外し、指輪にキスをしてから、改めて左手の薬指にはめ直すという演出をしてくれたそう。
ちなみにこの時の誓いの言葉は、同年に発表したアルバム『誕生』の中にある『Marrige』という曲の「I wanna marry you」という歌詞の後の「Yes, I do」というリフレインとなりました。
TV初出演に向け夫婦でダイエット。復活曲「太陽の破片」で返り咲く
結婚当時から知名度もカリスマ性も申し分なかった尾崎豊さん。
それでも、結婚して様々な責任を感じ、そんな時期に執行猶予で仕事ができない状態で不安に駆られていました。
同年6月には復活シングル「太陽の破片」の発売同日に、キャリアを通じて初のテレビ出演(そして最後となる)「夜のヒットスタジオ」への生出演&歌唱が決定し、それに向けて体を鍛え直しました。
夫婦2人で夜に実家近所を走ったり、城山公園で空手の型を練習し、体だけでなく精神を研ぎ澄ませる作業も徹底しました。
夫婦で準備した末に出演した「夜のヒットスタジオ」は伝説回として語り継がれる
生放送の当日、尾崎さんは「心を込めて歌ってくるよ」と家を出ていき、夜になると尾崎さんの母と一緒に、テレビの前で祈るように見守りました。
珍しく緊張している尾崎さんの様子に、繁美さんと母もドキドキしたそう。
歌唱された『太陽の破片』は拘置所で書きあげた歌で、完成後は一番最初にピアノで聴かせてもらった思い入れの強い曲。
TVでの尾崎さんの魂を込めるような歌唱と相まって、走馬灯のようにたくさんの苦労や想いが溢れ、号泣。
初めてのテレビ出演でしっかりと結果を残し、同日に発売された「太陽の破片」はオリコン3位を記録し、見事に返り咲きました。
ちなみにこのテレビ出演を巡っては、共演者などが後になって伝説として回想することが多く、司会を担当した古館氏は、”薬物で捕まった人を出すな””留置所で作った曲流すな”とテレビ局にクレームの電話が鳴り響いた逸話を明かしていました。
板橋で2人きりの新婚生活スタート。2度目の旅行(ニューヨーク)
復活シングルが無事ヒットした頃、尾崎さんと繁美さんは遂に実家を出て夫婦2人で生活することになります。
この時代、芸能人が賃貸を借りることは難しく、加えて尾崎さんは執行猶予の身だったため、何件も断られ部屋探しは難航。
結局、繁美さん名義でマンションを探すことになりますが、まだ20歳ということで門前払いを食らったり散々。
ようやく見つけたのが板橋区前野町にあるマンションで、そこで念願の夫婦2人での新婚生活がスタートしました。
何日もかけて家具や食器をこだわって選び、尾崎さんはダイニングテーブルを「暮らしの象徴」だとこだわったそう。
ふたりが気に入ったグレーとブラックのテーブルを見つけて買い、ずっと大切に使ったそうです。
ニューヨークで2度目の新婚旅行。死後も思い出のリバーカフェを訪問
入籍した5月の終わりに新婚旅行をするも、尾崎さんが酔って繁美さんの友人にキスしてしまったため、ニューヨークで新婚旅行をやり直すと約束。
6月に復活シングルがオリコン3位のヒットを記録し、7月頃には念願の2人きりでの新婚生活がスタート。
満をじて8月に約束していたニューヨークでの新婚旅行に出掛けました。
尾崎豊さんは繁美さんと出会った直後にニューヨークに住んでいたことがあったので、「俺のホームタウン」だと言って、定番の観光地である、自由の女神、エンパイアステートビル、ワールドトレードセンター、メトロポリタン美術館などを案内。
住んでた頃に毎日のように行っていたセントラクパークは「俺の庭」と言って、ポップコーンを買って手慣れたように鳩やリスにあげていたそう。
あるピアノのあるバーで『卒業』を弾き語りしたら大喝采を浴び、「本当は場末のピアノ弾きの方が合っているのではないか」との回想も。
そして、尾崎さんが大沢誉志幸さんに連れてきてもらったという思い出のフレンチレストラン『リバー・カフェ(The River Cafe)』にも訪問。
対岸のマンハッタンの夜景が綺麗で、川の流れをゆっくり眺めるなど良い時間を過ごしたそう。
繁美さんは尾崎さんの死後、何度かこの思い出の店に訪れては、その時の尾崎さんの優しい笑顔を思い出していたそう。
伝説の東京ドーム前に情趣不安定。嫁・繁美に過剰な束縛。ライブの中止と借金を覚悟
2度目の新婚旅行から帰国した後、9月に発売した4枚目のアルバム『街路樹』はオリコン2位を記録。
9月12日には東京ドームで一夜限りの復活ライブ「LIVE CORE」を行い、5万6,000人を動員するなど、カリスマ性の健在ぶりを示し、見事に復活しました。
しかし、伝説の東京ドームライブの裏では、事務所との確執などから自分の思うような音楽活動がさせてもらえず、情趣不安定な尾崎さんの束縛や八つ当たりに、繁美さんはとても苦しめられました。
24時間一緒にいるのに浮気を疑ってきたかと思えば、下着を全て捨てて子供物のようなデザインの下着に買い替えられたり、”太れ”と言って繁美にさんにご飯をたくさん食べさせるなどしました。
外出先では「上か下か、俺の方を向いて歩け」と、男の方を見ないように指示するなどめちゃくちゃでした。
ドーム公演前日に「ライブは中止」「借金背負って可哀想だな」。公演後には繁美が入院
東京ドームライブの1週間前になる、尾崎さんは繁美さんに、
「ライブはキャンセルする。オマエも新婚早々、借金を背負ってかわいそうだな」
など、繁美さんが不安になるようなことを毎日のように言って八つ当たり。
同時に不審な行動もあったりし、繁美さんは本当にライブが中止になり借金を背負うことを覚悟したそう。
ライブ前日にはアルコールをたくさん飲み喉はガラガラ、当日の朝になっても、
「今日コンサートはやらない」
「明日から食えなくなるから貧乏覚悟しておけよ」
と言ってきたそう。
そんな尾崎さんに繁美さんは、
「いいんじゃない? 好きにすれば?」
「でもさ、少なくとも5万人が悲しむことになるわよ。それより5万人に感動を与える方が素敵じゃない。うらやましい人ね」
と言い返すと、尾崎さんはそのまま怒った様子で家を出て行ってしまったそう。
内心「終わった」と思いながらも、2時間後にのど飴を舐めながら嫁の好物のプリンを買って帰宅し、繁美さんは安心。
そして、挑んだ東京ドームライブは大成功。
無事にライブが終わって安心していた繁美さんですが、ライブ前の束縛で好きにトイレに行かせてもらえなかった影響か、血の尿が出て入院。
繁美さんが入院した際、尾崎さんは「オマエを残して帰れない」と、ギターを持参し無断で病院に泊まり込み。
ギターの音で尾崎豊さんがいるとバレ、看護師さんから「片時も離れたくないほど、仲がいいわね」と言われ、大型ライブから解放された後も束縛癖は治らなかったようです。


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