”ポスト松田聖子”と期待されながらも18歳の若さで亡くなった岡田有希子さん。
1986年4月8日に18歳の若さで亡くなると、その後に後追い自殺する若者が続出しました。
岡田有希子さんの死後、後追い自殺する若者が続出しました。
今日は、彼女の後を追った若者の報道について整理してみたいと思います。
また、それほどにも若者を狂わせた岡田有希子さんの当時の人気ぶりについても綴ってみたいと思います。
「その後の新人で例えるなら誰ぐらいなの?」という例えもしてみます。
岡田有希子の自死後の影響。後追い自殺した若者は40人以上で社会問題になる
岡田有希子の死後、生前の岡田有希子さんのあだ名「ユッコ」にちなんで、「ユッコ・シンドローム」という言葉が流行しました。
彼女の死はセンセーショナルに取り上げられ、社会問題となり、特に問題視されたのは”後追い自殺”です。
彼女が死去した4月8日を皮切りに、ほぼ毎日、若者がビルや校舎、マンションから”飛び降り”を決行。
その数は40人以上と数えられています。
当時の岡田有希子を後追いした若者の報道。遺書に”ユッコみたいになりたかった”など
4月8日に岡田有希子さんが自死すると、各メディアが大きく報道。
その僅か3日後の4月11日に、東京・江戸川の都営住宅11階通路から18歳と12歳の姉妹が飛び降り心中。
姉妹は両親あてに「ごめんなさい」という遺書を残しました。
4月11日の姉妹の衝撃的なニュースの後、全国で同じような事例が相次ぎ、負の連鎖が続きました。
4月11日 | 18歳と12歳の姉妹 | 東京・江戸川の都営住宅11階通路から飛び降り心中。両親に「ごめんなさい」と遺書を残す |
4月12日 | 16歳の女子高校生 | 学校の本館5階の屋上から飛び降り。全身打撲で2日後に死亡。文武両道の優秀な生徒だったが遺書に「クラスが変わって嫌だった」と残す |
4月14日 | 小学4年生(9歳)の少女 | 上尾市内の7階屋上から飛び降り。前日に家から1万円を持ち出し叱られ、発作的に飛び降りたとされる。 |
4月15日 | 中学生3年生の女子生徒(14歳) | 岩手県盛岡市。マンション11階の自宅から飛び降り。4月から百日ぜきなどの体調不良。遺書に「私の勝手を許してくださ」と残す |
4月15日 | 16歳の少女(無職) | 神戸市須磨区。近所のマンション13階から飛び降り。直前に妹に「岡田有希子さんみたいになりたい」と話していた |
4月18日 | 予備校生(18歳) | 横浜市。首吊り。予備校生は岡田有希子が自殺した直後からふさぎごんでいた |
4月19日 | 20歳前後の男性 | 千葉県勝浦市鵜原の明神崎で20メートル下の岩場へ飛び込み。近くに有希子が載った週刊誌を入れたバッグが発見。 |
5月2日 | 21歳の青年 | 岡田有希子さんと同じくサンミュージックのビルから飛び降り。胸には彼女のブロマイド。 |
最初の頃はメディアも若者の後追いを伝えてましたが、悪影響を気にしてか、徐々に報道の頻度が減っていきました。
後になって、岡田有希子さんの影響があったと思われる自死は同年中に40件以上はあったと伝えられました。
岡田有希子さんが自死した1986年の自殺者数は、前年1985年よりも80人も多く、さらには”飛び降り”という手段での自死が圧倒的に多くありました。
岡田有希子の人気度。当時の売れっぶり。もし生きていたら?
死後、ユッコシンドロームと呼ばれる現象を起こしたほどに人気だった岡田有希子さん。
本名は佐藤佳代(さとう かよ)で、愛知生まれ愛知育ち。
上に姉が1人いる次女で、小学生の頃から勉強ができる美少女だったことから先生たちに可愛がられる学園のスターでした。
中学生の頃から様々なオーディションやコンテストに参加し、「スター誕生」でサンミュージックに見出されました。
サンミュージックの関係者は「スター誕生」に登場した彼女を一目見て「この子はスターになる」と確信。
決勝ラウンド進出を親が反対した際は、サンミュージックの専務らが親を説得しにいったほど、デビュー前から間違いない逸材でした。
1984年4月に「岡田有希子」の芸名で「ファーストデイト」で歌手デビューすると、いきなり10.6万枚のセールスを記録。
あまりの美貌と堂々とした歌唱から、デビューしてすぐに「ポスト松田聖子」と呼ばれました。
デビューして3ヶ月後のファンクラブの結成式には4000人のファンが集結。
同年のレコード大賞新人賞を吉川晃司、菊池桃子、荻野目洋子、SALLY、一世風靡セピアらの大物と争い、見事に勝ち抜き受賞。
1985年にはテレビ、ラジオ、雑誌と忙しく、点滴を打ちながらの過酷なスケジュールをこなし、11月にはデビュー2年目にしてドラマ「禁じられたマリコ」で主演を果たします。
1986年1月にはシングル「くちびるNetwork」がオリコンで初登場1位を記録するなど、スターまで死角なしという状況でした。
しかし、同年の4月に急死してしまったということです。
死後、「これからだったのに」「生きていれば松田聖子のようになれた」と言われるわけです。
実際の岡田有希子の人気。”もし生きていたら”。アイドル以外のジャンルも急成長していた時代背景
デビュー2年以内に、ドラマで主演、オリコン1位を記録というと、相当に人気だったことが伺えます。
しかし、実際には岡田有希子さんのことをよく知らない人も多くいました。
その背景に、彼女がアイドル歌手としてデビューした1984年には、国内の音楽シーンがアイドルに頼らない状況になっていたせいです。
1980年から1981年の2年間は、「聖子ちゃんカット」が世の日本人女性のベーシックな髪型になるという社会現象が起きましたが、そのブームが去った後の反動は凄まじかったです。
日本では80年代中盤までに、マイケル・ジャクソン、シンディー・ローパー、マドンナなどの歌唱力や演出に秀でた本場の音楽に目覚めた方が続出。
また、同じ80年代中盤頃には国内でもBOOWYや尾崎豊など、産業ミュージックに楯突いたロックシンガーが台頭し始め、各アーティストが宗教的な人気を集めていました。
若者の間で「アイドルを聴かない私かっこいい」という風潮も強くなり、アイドルソングを聴く母数は明らかに減っていました。
岡田有希子さんはアイドルという枠の中では歴史的な勢いを見せましたが、そもそもアイドルの存在自体が80年代前半ほど尊いものではなくなっていたのです。
”ポスト松田聖子”とは言われていましたが、仮に生きたまま80年代の後半や90年代に突入したとしても、松田聖子さんほど潜在的なアイドルになることは難しかったと言えます。
それは、岡田有希子さんのポテンシャルの問題ではなく、日本人が色んな音楽や快楽を知ってしまった時代背景のせいです。
それでも従来のアイドルにはない秀才さ、真面目さからも、彼女なりのポジションを獲得していたことが想像できます。
本人も”松田聖子さんのようになりたい”というよりも、”自分は自分にしかなれない”と語っており、時代の違いを承知していたような気がします。
サンミュージックという大手にいて、竹内まりやさんとの協力体制が出来上がっていたことから、平成でも通用していたことは間違いなさそうです。
持ち前のストイックさで演技や歌唱を磨き続けていれば、南野陽子さんと中山美穂さんの良いとこ取りな天才として活躍されたことでしょう。
もしかしたら、女版の木村拓哉のようなカリスマになっていたかもしれませんね。













コメント