18歳の若さで自ら命を絶ったスーパーアイドル・岡田有希子さん。
彼女の自死を巡っては、当時からメディア上で多くの都市伝説や雑な報道で溢れました。
彼女が書き残した”書き置き”に俳優・峰岸徹さんの名があり、それはサンミュージックの陰謀とし、神田正輝さんや舘ひろしさんら石原プロの方と肉体関係にあり、子供を妊娠していたなど、事実無根な都市伝説が乱立。
また、某媒体が報じた、岡田有希子さんがアスファルトに倒れてる最後の写真の掲載も、「何で撮影できたの?」と疑問が残ります。
今日は岡田有希子さんと神田正輝さんや舘ひろしさんに纏わる都市伝説や、最後の写真に関する逸話について書いてみたいと思います。
なぜ岡田有希子の最後の姿が撮影された?カメラマンにも交通事故や自死の噂
1986年4月8日に岡田有希子さんが死去すると、各メディアが大きく報道。
報道の中には過激な触れ込みで報じるメディアも多く登場しました。
その中で最も注目を集めたのが、岡田有希子さんが飛び降りた直後の遺体の写真です。
当時、この写真の掲載を巡って、かなり大問題となりました。
最初に例の写真を掲載したのは、死去翌日4月9日発売の「報知新聞」でした。
報知新聞で掲載された後、大手雑誌も続けて岡田有希子さんの最後の姿を掲載。
「フォーカス」の4月18日号。
「フライデー」の4月25日号。
「週刊読売」の4月27日号。
「女性自身」の4月29日号。
「週刊平凡」の5月2日号。
これら週刊誌も、岡田有希子さんの最後の写真を掲載しました。
多くの雑誌が、飛び出た脳などの見苦しい部分を白黒で掲載するなど対処しましたが、フォーカスはカラー写真でリアルに掲載し、大批判を浴びていました。
そもそも気になるのは、なぜ、飛び降りた直後の岡田有希子さんの写真が存在するのか?
誰がどのようにして、早々に回収されたはずの遺体を絶好のタイミングで撮影できたのか?ということです。
最初のガス自殺未遂の一報で事務所に向かう途中に飛び降りる何かを目撃。マネキンか中年女性だと思うも岡田本人で驚く
岡田有希子さんが死去した4月8日、朝にも自宅でガスを使用した自殺未遂。
最初の自殺未遂は峰岸徹さんへの失恋のショックでしたが、2回目の事務所の屋上からの飛び降りは、”大変なことをしてしまった”という衝動的なものでした。
例の写真を撮影したのは報知新聞のカメラマンで、そのカメラマンは自宅での自殺未遂の一報を聞いた時点で取材をすべくサンミュージックに向かっていたのです。
サンミュージックの事務所に向かっている途中、信号待ちの際に、たまたまビルを見上げていたところ、偶然岡田有希子が飛び降りする瞬間を見掛けたのです。
最初は彼女だとは思わず、髪がやたらヒラヒラし、地面に激突した時に両足がバウンドし、最初は女性のマネキンか、もしくは黒いゴミ袋だと思ったそうです。
近づいたところ、人間だったため驚き、押さえの写真として撮影。
その際は中年の女性だと思っており、後から岡田有希子さんだと知って驚いたそうです。
そのような経緯から、報知新聞のカメラマンは歴史的な写真をタイミングよく撮影することになったのです。
つまり、
- なぜ飛び降りた瞬間に現場にいたのか?→最初の自殺未遂の一報で事務所に駆けつけた
- なぜ写真を撮ったのか?→押さえの写真として撮った
- なぜ国民的アイドルの酷い写真を撮ったのか?→岡田有希子さんだと思わなかった
↑こういうことになります。
ちなみに飛び降りた直後に現場にいたテレビメディアは、最初は女性マネージャーが飛び降りたと伝えようとしていました。
それほどに遺体から岡田さんだと分かちづらく、”中年女性だと思っていた”という言い分は事実だと思われます。
報知新聞のカメラマンは現在もファンに憎まれる。遺体を動かした説、自死、交通事故死の噂もが流れる。
あまりにも酷い写真を撮影した報知新聞のカメラマン。
そのカメラマンの纏わる様々な噂が流れ、現在もファンの間では憎むべき存在となっています。
まずは、そのカメラマンが、自分の好みのアングルで岡田さんを撮影しようと、勝手に体の向きなどを変えたという噂です。
現場に警察が到着してないのを良いことに、うつ伏せだった岡田有希子さんを仰向けにするなどしたと。
また、彼女を動かす際、足で蹴るようにして動かしたという説まであります。
最後の姿を撮影したカメラマンが呪われて、1年後の1987年に自死したというガセネタまでありました。
あの写真以降、身の危険を感じたのか、表立ったカメラマンの仕事は抑えたそう。
毎年、彼女の命日にはネットなどから追悼の声が溢れますが、決まってカメラマンの噂もセットで回想されます。
現在でも交通事故に遭って亡くなったという都市伝説があるなど、憎しみは写真の存在が知られる限り永遠に続きそうです。
岡田有希子の妊娠説。事務所の陰謀で遺書に”峰岸徹”。神田正輝や舘ひろしの身代わり説
岡田有希子さんの死後、都市伝説はカメラマンだけでなく、石原プロとサンミュージックの陰謀説もありました。
基本的に、岡田有希子さんが失恋した相手は俳優の峰岸徹さんで間違いなく、その詳細は別記事に書いています。

自殺が失恋の感情に影響したのは、最初の自宅でのガス自殺未遂のみで、”大変なことをした”という自責の念から、その後に事務所の屋上から飛び降りたというのが大まかな真実です。
しかし、当時は雑誌メディアからは、実は彼女が神田正輝さんや舘ひろしさんなど石原プロの俳優と恋愛関係にあり失恋し、峰岸徹を身代わりにしたとの仮説を報じたのです。
岡田有希子は神田正輝の子を妊娠して自殺騒動を起こし事務所で怒鳴られ殴られた後に”窓”から自殺した?
噂の発端は、岡田さんが亡くなった4月8日の前日7日に、神田正輝さんが松田聖子さんとの間に第一子の妊娠を発表していたことです。
自殺の前日にたまたま妊娠を発表していたことから、実は岡田有希子さんは神田さんと恋仲で、自分と結ばれない運命に絶望して飛び降りたのでは?との強引な説が浮上。
週刊誌では、当時のアイドルは業界の大物を相手にした枕営業がよくあり、枕営業で傷付いてアイドルを癒していたのが石原軍団で、アイドル業界(サンミュージックなど)とは強いパイプがあったそう。
同じ時期に岡田有希子さんも神田正輝さんとの子供を妊娠しており、松田聖子(同じくサンミュージック)さんの妊娠発表に絶望し、1度目の自殺未遂後に、事務所の人間が激昂して平手打ち。
事務所に連れて行くと、「とんでもないことをしてくれたな!」と岡田さんを追い詰め、何らかの拍子に事務所の窓(屋上ではなく)から転落。
岡田さんの死後、ノートに峰岸徹さんとの失恋が書かれていたと公表したのは、神田正輝さんの醜聞をかばうために、石原プロとサンミュージックで峰岸徹さんを身代わりに仕立てた偽造。
その後、バッシングに耐えた峰岸徹さんは、身代わりになった見返りとして、たくさんの良い仕事をもらい優遇されたとか。
岡田有希子と神田正輝の説は絶対嘘!松田聖子との披露宴に楽しそうに出席
神田正輝さんと松田聖子さんは1985年6月に電撃結婚し、挙式・披露宴には岡田有希子さんも出席しています。
この披露宴が岡田有希子さんと神田正輝さんの初対面ですが、ここからどうやって恋仲に発展するのか。
岡田有希子さんと峰岸徹さん、神田正輝さんの出会いを時系列にまとめると、どの説もかなり怪しいことが分かります。
1983年 | 峰岸徹が嫁・藍とも子と離婚 |
1985年4月 | 神田正輝が松田聖子と婚約を発表 |
1985年6月24日 | 神田正輝と松田聖子が結婚式。岡田有希子も出席 |
1985年11月 | ドラマ「禁じられたマリコ」で俳優・峰岸徹と共演 |
1986年4月7日 | 松田聖子が第一子の妊娠を発表 |
1986年4月8日 | 岡田有希子が自殺 |
1986年10月 | 松田聖子が神田正輝との第一子・沙也加を出産 |
神田正輝の娘・沙也加が自殺すると”岡田有希子の呪い”と揶揄される
岡田有希子さんの自死の黒幕に神田正輝さんがいるとの都市伝説は、現代も多く語られます。
2021年に神田正輝さんの一人娘の神田沙也加さんが35歳の若さで自死すると、一部ネットで”岡田有希子の呪い”、もしくは”神田正輝の呪い”だと揶揄されました。

偶然にも神田沙也加さんが自死に追い込まれた理由も、男性関係。
しかも、自死の方法も飛び降りと、岡田有希子さんと共通点が多くありました。
実際には神田正輝さんは全くの無関係でありますが、最愛の娘が亡くなった時にまで岡田さんの都市伝説と結びつけられ、とても迷惑そうです。
ちなみに舘ひろしさんにも、同じような都市伝説がありました。
岡田有希子さんがデビュー前からファンで、デビュー後に共演した舘ひろしさんにも、岡田さんと肉体関係にあったという噂がありました。
こちらの方は長くは引っ張られず、基本的には神田正輝さんの都市伝説の方が人気です。












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