岡田有希子さんといえば、1986年4月に18歳の若さで亡くなった伝説のアイドルです。
亡くなるまでの2年間の快進撃は、芸能界の歴史の中でも類を見ず、今でも”もし彼女が生きていれば間違いなく第二の松田聖子さんになっていた”と悔やまれています。
岡田有希子さんは自死という形で亡くなり、自ら死を選んだ理由は遺書に書かれていた俳優・峰岸徹さんへの恋心がありました。
父親と娘ほどの年齢差のある2人ですが、どのような経緯で峰岸さんと出会い、恋心を抱き、絶望したのか?
今日は岡田有希子さんと峰岸徹さんの行き違いの恋について、分かっていることを整理してみたいと思います。
岡田有希子と峰岸徹は1985年のドラマ「禁じられたマリコ」で共演。出会う前から年上好きを公言
岡田有希子さんと峰岸徹さんの馴れ初めは、亡くなる前年・1985年11月からスタートしたドラマ「禁じられたマリコ」です。(1985年11月5日〜1986年1月28日)
このドラマで岡田有希子さんは初主演を務め、作中の超能力を持った少女・杉浦麻里子役を演じました。
そして、当時に42歳のベテラン俳優だった峰岸徹さんは、岡田さん演じる麻里子の父の殺害に関わった黒木刑事を演じました。
作中では恋仲になるような描写はありませんが、黒木刑事はストーリーの鍵を握るキーマンとして存在感を発揮、撮影中はクルーの兄貴分として現場を支えました。
初主演にプレッシャーを感じる岡田有希子さんにとって、父性的で相談しやすい峰岸徹さんの存在はとても安らかなものでした。
峰岸徹は岡田有希子にとって理想の男性だった。生粋の年上好き!
峰岸徹さんは1985年に岡田さんと共演した時点で42歳で、岡田さんとは親子ほどの年齢歳がありました。
デビューは1968年で、当時から影のある都会的な容貌から「赤木圭一郎の再来」といわれ、中堅スターとして活躍されていました。
私生活では1976年に12歳年下の女優の藍とも子とさん結婚し娘が生まれるも、岡田有希子と共演する2年前の1983年には離婚。
当時の峰岸さんは、前妻との間に生まれた一人娘を引き取り、男手一つで育てながら俳優業に勤しむ身でした。
デビューして2年の18歳の岡田有希子が、バツイチ子持ちの42歳に惚れてしまうとは、かなり違和感があります。
しかし、実は岡田有希子さんはデビュー早々(峰岸と共演する前)から、生粋の年上好き宣言をしていたのです。
あるメディアに理想の男性のタイプを聞かれた際、
「いいなあと思うのは舘ひろしさんとか、結構年が離れた人ですね。オジンくさくなければ、お父さんみたいな人でもいいです」
と、年上好きを公言。
デビュー前はTVで『西部警察』の舘さんを見てはキャーキャー言ってたそうで、雑誌「明星」で共演すると嬉しそうにしていました。
岡田さんの熱狂的なファンは好みを知っていたので、ドラマが始まって早々に2人の仲を疑い、死後の熱愛説はすんなり受け入れたそうです。
岡田有希子と峰岸徹の信頼関係。送りドライブや2人での食事。成城の自宅を行き交い密会交際
岡田有希子さんは峰岸徹さんと共演したドラマでキャリア初の主演を務めました。
真面目な岡田さんは忙しい合間を縫って、台本をキッチリ覚え、NGはほとんど出しませんでした。
そんな撮影の間、演技のことなどで悩みがあると峰岸徹さんに積極的に相談し、仲間内で一緒に食事をする関係となりました。
2人の師弟関係はやがて電話、手紙、密会にまで発展していきました。
峰岸は撮影後に岡田有希子をベンツで成城の下宿先まで送っていた。自宅近所で何度も密会
2人が共演するドラマの撮影が行われていた当時、岡田有希子さんはサンミュージック社長・相澤秀禎の成城4丁目の自宅に下宿していました。
そして、峰岸徹さんも成城6丁目に住んでおり、岡田さんの下宿先から1キロも離れていないご近所さんでした。
ドラマの収録が頻繁に行われた砧撮影所が2人が住む成城のすぐそばにあったことから、撮影が終わると峰岸さんのベンツに乗り、嬉しそうに送ってもらっていたそうです。
やがて、2人きりで食事するようになり、成城の峰岸さんの自宅周辺で夜な夜なデートを重ねていたという目撃情報が相次いでました。
この頃、岡田有希子さんは友人に「毎日がとっても楽しい」と話しており、18歳にして初恋を楽しんでる様子でした。
ちなみに当時の岡田有希子さんは下宿中で生活を制限されており、峰岸徹さんも自宅に8歳の娘がいて、半同棲の婚約者(岡田は知らず)もいました。
男女の関係にまで及んでおらず、隙間時間でプラトニックな関係を築いていただけとされてます。
撮影が終わり青山で1人暮らしを始めると峰岸徹との接点が減る
岡田有希子さんと峰岸徹さんを結んでいたドラマ撮影も、1986年の1月中ばで撮影終了。
撮影後の”自宅まで車内で2人きり”という甘い時間が消え去りました。
また、岡田有希子さんは3月で高校を卒業し、峰岸さんと近所だった成城の下宿から引っ越すこととなります。
4月4日から青山で1人暮らしを始めると、マネージャー、付き人の監視が厳しくなり、気軽に峰岸徹さんと密会することが難しくなりました。
さらに、峰岸さんは4月末に26歳の元OLの婚約者と入籍を予定。
峰岸さんは再婚に向けて異性関係を整えたかったのか、岡田さんからの電話や手紙のレスポンスが悪く冷たい態度となっていました。
岡田有希子は峰岸徹の婚約者を知り置き手紙と自殺未遂と振り向かせようとした?
峰岸徹さんは半同棲していた婚約者と4月末に入籍して内輪だけのパーティーを開く予定でした。
婚約者の存在を知らない岡田有希子さんは、共演ドラマが終了した後も、峰岸さんとの接触を続けました。
2人が最後に会ったとされるのが死の18日前のオールナイトイベントです。
3月21日の23時から新宿の映画館『ミラノ座』で行われた峰岸徹さんが出演した映画「スタア」の試写会を兼ねたオールナイトのイベントに、岡田さんもお忍びで来賓。
岡田さんは一般席でメガネをかけ地味な服装で参加し、午前1時過ぎに出演者控え室の峰岸さんのもと行き、写真が入っているとみられる封筒を直接渡したそうです。
この日の峰岸さんは岡田有希子さんの存在に対してイライラした様子で、イベント中もスタッフに八つ当たりするなどしていたそうです。
深夜3時頃にイベントが終了する頃には岡田さんと峰岸さんの姿はありませんでした。
2人で歌舞伎町の街に消えたのか、それとも峰岸さんが岡田さんを巻いて逃げ帰り、岡田さんは彼を探して追ったのか。
峰岸徹に冷たくされる。電話に婚約者が出たことで成城の自宅前まで確認し泣き腫らす
3月21日のミラノ座のオールナイトイベント以降、2人は一度も会うことがありませんでしら。
4月4日には岡田有希子さんは成城から青山に引っ越し、2人の距離はどんどん遠くなっていきました。
岡田有希子さんが亡くなる前日・4月7日に、映画「ロッキー4」の試写会に出席。
岡田さんは試写会が終わった後、公衆電話から何者かに電話をしており、その相手は峰岸徹さんだと思われます。
帰宅後も峰岸徹さんに電話をかけ、その際に婚約者の女性が「彼ならシャワーを浴びている」と切られしまったのです。
その電話でようやく岡田さんは婚約者の存在を知ったのです。
女性が出た電話の後、友人・生田智子さんとの電話で峰岸徹さんの自宅に女性がいる事を報告し、とても凹んでたそうです。
そして、日付が変わった4月8日の早朝に、タクシーで成城の峰岸徹さんの自宅の前まで向かい、そこで現実を知る何かを確認し、泣き顔でタクシーに乗って東京駅まで送ってもらったのです。
青山の自宅ではなく東京駅まで向かったのは、そのまま仕事も何もかもを捨てて実家に帰ろうとしたのでは?と言われています。
失恋し帰宅した後に書き置きをして部屋にガスを溜める
成城の峰岸徹さんの自宅まで行き、大泣きをして、なんとか青山の自宅に戻りました。
自宅に戻って約5時間以内に、かの有名な峰岸徹さんの名前を含む書き置きを作成。
封筒に入れられたピンクの便せん2枚で、”遺書”ではなく”書き置き”と記し、当時、少女たちの間で流行っていた〝まる文字〟(変体少女文字)で、18行にわたって峰岸徹への思いを走り書き。
↓置き書きの大まかな内容
「あこがれていたのに急に冷たくされて悲しい」
「電話もかけてくれない」
「もう一度お会いしたかった」
「待っていたけど、あなたは来なかった」
「峰岸さんは会ってくれない。好きか嫌いかはっきりしない。思わせぶりで冷たい人。でも私は好きなの。捨てないで。捨てないで…」
「峰岸さんは会ってくれない。」
結びには「勝手なことをしてごめんなさい」とあり、自作の詩も添えられていました。
手首を切り、部屋にガスを溜めて自殺未遂。
同じマンションの住民がガス会社に電話し、レスキュー隊が岡田さんの部屋に入った時、岡田さんは押入れの中で泣いていたそうです。
この時の岡田さんは本当に死のうとしたのでなく、峰岸徹さんに振り向いて欲しくて奥の手を使ったのでは?との考察もあります。
岡田さんは中学2年生の時にも、母に受けたいコンテストに反対された際、部屋をガス臭くして母に本気度をアピールし、その時にも母に手紙を書き、無事にコンテストに出場したという前科がありました。
中学生の頃とやり方が似てることから、命のある状態で病院に搬送され、書き置きを見た第三者が峰岸さんに連絡し、死を覚悟するほどに真剣だと知れば峰岸さんも応えてくれると、そう考えたとの見方もできるのです。
ガスは天然ガス(吸っても死なない)で、手首の傷は〝長さが5センチまでなく、深さも5ミリ以下”という浅い傷、押入れで泣いてたという状況からも、本気ではなかったことが分かります。
岡田有希子さんは南青山病院に送られ、そこで傷口を4針縫い、精神安定剤を投与されるなど、幸い簡単な手当で済みました。
警察も駆けつけ、その際に峰岸徹さんの名前の入った置き書きも回収されています。
騒ぎを起こした罪悪感から飛び降りる。峰岸の名前入りの置き書きが”遺書”として報道される
岡田有希子さんが病院に運ばれると、すぐにサンミュージックの福田専務が駆けつけました。
福田専務は病室の奥で静かに泣いてる彼女の姿を見て、とても反省してるように感じたそう。
入院の必要もないというとで病院を出てタクシーに乗り、そこで福田専務は実家と青山の自宅と四谷の事務所のどこに行きたいかを聞き、岡田さんは事務所を選び、事務所に行くことに。
事務所に到着すると、福田専務と付き人の女性・溝口さんと3人で、これから話を詳しく聞こうという状況でした。
ガス自殺未遂によって警察も出動する大ごとになっており、事務所の周りにはマスコミが待機。
まさか、共演していた子持ちのベテラン俳優に恋心を抱き、電話に婚約者が出て、自宅前まで確認し、失恋のショックだった・・・、とは言いづらかったことでしょう。
自身のアイドルとしての人気、社会的評判などの下落などが脳裏を過り、何よりも真面目な彼女が周囲にこれだけ迷惑を掛けてしまったことは耐えがたかったことでしょう。
結局、岡田さんは福田専務が社長からの電話で別の部屋に行った隙に、屋上に登って飛び降り自殺。
後に福田専務は、岡田さんの事務所屋上からの飛び降りに関しては、峰岸徹さんへの想いとは関係なく、騒ぎを起こした自責の念からの、衝動的なものだったと説明しています。
死後、岡田さんが自宅で書いた置き書きが遺書として報道され、峰岸徹さんはバッシングされ続けることになりました。
峰岸徹の記者会見。恋人関係を否定。婚約者との再婚は1年後に延期される
岡田さんが自死してすぐ、峰岸さんは会見を開きました。
会見内容が長いので、会見で峰岸さんが説明した岡田さんとの関係を整理すると、
- ドラマの中で共演者グループで仲良しで一緒にお昼ご飯を食べたりしていた
- 自宅が同じ成城(共演時の岡田は下宿先が成城だった)で送って帰ることもあった
- 最後に会ったのは1月半ばで、最後に電話をしたのは3月頃。
- 岡田有希子さんから抽象的に好意を伝えられたことはあった。
- もしかしたら自分が初恋の相手だったことは考えられる
- 年齢差があるので、彼女に好意があったとしても見せないように注意し、あくまで兄貴的なポジションを守っていた。
とのことです。
峰岸さんが会見で語った、”岡田さんと最後に会ったのが1月のドラマの打ち上げ”というのは間違いで、実際は3月のミラノ座でのオールナイトイベントこそが、2人が最後に会った日でした。
やはり、再婚を控えてる身として、密会していたことなど、恋仲と誤解されそうな部分はオブラートに隠したい印象でした。
↓以下が会見での峰岸徹さんの主な発言です。
記者:岡田有希子さんが亡くなって今のお気持ちは?
峰岸:正直、ものすごくショックです 。
記者:どんなお付き合いだったんですか?
峰岸:昨年からドラマで共演し、仕事でいろいろかわいがっていて、僕だけでなく、みんなに可愛がられていました。ドラマの中で、グループみたいにみんな仲が良かった。まあ、兄貴というか…。
記者:「峰岸さんにふられた」と遺書に名前があったことについては?
峰岸:そう言われても…。お昼を一緒に食べたり、帰りが同じ成城なので送って帰ったりしたぐらいで…。
記者:死の直前、電話があったと言われていますが。
峰岸:聞いてませんし、彼女のマンションに行ってません。
記者:最後に会ったのはいつごろ?
峰岸:最後に会ったのはドラマの打ち上げのときですから、1月半ばだと思います。
記者:その後、電話はよくかかってきたんですか?
峰岸:たまにかかってきました。ひと月かひと月半前、電話がありましたが、それが最後ですね。仕事のグチを聞いてあげたりしましたが….。
記者:電話以外では? 例えば手紙とか。
峰岸:最近、湯沢での地方ロケのときの写真が入った手紙が郵送で送られてきましたね。「楽しいロケーションでした」と書いてありました。
記者:破局のようなものがあったのですか?
峰岸:彼女は明るいけれど、わりとナイーブで、フッと考え込むところがありました。僕は兄貴のつもりだったんだけど、ひょっとして彼女には妹としてだけなく、プラスアルファの感情があったかもしれない。自分で言うのはおこがましいですが、初恋っていうのかな。
記者:彼女の気持ちを受け入れようとは思わなかったのですか?
峰岸:年齢も違うし、そんな交際ではないです。あまり(好意を)示さないように気をつけていたぐらいで。僕のことが100%原因で自殺したのか、疑問だと思います。
記者:「好きだ」と告白されたんですか?
峰岸:具体的にはなかったけど抽象的には…。
記者:今、思うことは?
峰岸:責任は感じます。責めを負うわけですから。娘が大きくなったら愛することを理解してやらなければいけないな、と思います。
会見で峰岸さんは、岡田さんの自死が直接自分と関係あるのか疑問と仰っていました。
峰岸徹は婚約者との再婚が延期になる。亡くなる寸前まで疑われ続けた?
峰岸徹さんは1986年の4月末に半同棲状態の婚約者と再婚するつもりでした。
8歳の娘も彼女に懐いており、親近者でパーティの段取りもできていました。
しかし、岡田有希子さんの一件で、再婚の予定など全部が延期となりました。
峰岸さんが婚約者と再婚できたのは1987年の1年後だったと言われています。
その後は、再婚した相手との間に2人の子供が生まれるなど、2008年に65歳で亡くなるまで良き父親を全うしました。
ただ、キャリア晩年の峰岸徹さんには岡田さんの事件の影が残り続けました。
ドラマ「高校教師」では娘と関係を持つ父親を演じるなど、より闇深いイメージが付き纏いました。
岡田さんの死後30年後の2016年頃に、サンミュージックの福田元専務が2回目の飛び降りまでの経緯を説明。
近年のネット社会になって当時の情報が整理され始め、ようやく誤解が和らいだ印象です。
岡田有希子と峰岸徹の馴れ初めから死去までの時系列
1985年11月 | ドラマ「禁じられたマリコ」で共演 |
1986年1月17日 | 「禁じられたマリコ」の打ち上げ。※峰岸徹は死後の会見で岡田と会ったのがこの日が最後と答える。 |
3月22日1時 | 新宿の映画館『ミラノ座』のオールナイトイベント。控え室辺りで岡田有希子と峰岸徹が会い写真が入っているとみられる封筒を渡す。 |
3月22日3時 | イベントが終わる頃には2人共会場から消えていた。イベントでの峰岸はイライラした様子だった。 |
3月30日 | アイドル・遠藤康子が事務所に恋人と別れさせられたショックでビル7階から飛び降り17歳で死去 |
4月4日 | 青山で1人暮らしをスタートさせる。峰岸徹の自宅から離れ、事務所の監視も強くなる。 |
4月5日 | 遠藤康子の自死に対して友人に「歌を諦めれば良いのにね」と普段の雰囲気で話す |
4月6日 | 新幹線の中で関係者に遠藤康子について「遠藤さん、亡くなってしまったのねぇ」と話す。 |
4月7日昼 | 浅見純子と映画鑑賞。生田智子を映画に誘うも学校の為断る。新宿で「スターウォーズ」の後、19時から渋谷で「ロッキー4」を鑑賞。 |
4月7日20時半頃 | 公衆電話で何者かに電話。峰岸徹かと思われる。浅見純子と別れるまでに「電話しよう」と青山の新居の電話番号を渡す。 |
4月7日22時 | 青山の1人暮らしのマンションに帰宅 |
4月7日22時頃 | マネージャーから翌日(8日)のドラマ撮影が中止になったと電話が来る。「荷物(引っ越しの)の整理をしなきゃ」と明るく話す。峰岸も8日はオフ。 |
4月7日23時〜半頃 | 峰岸徹の自宅に電話する。一緒に映画に行けなかった生田智子とも電話。石野陽子から電話が来るも出ず。生田からの再着信は留守電になる。 |
4月7日23時半〜 | 生田智子に2回目の電話。峯岸の電話に女性が出て「シャワーを浴びてる」と言われたことを話す。「留守番になってたけど何してたの?」と聞かれ「近所のスタイリストのところに行ってた」とも答える。※この電話で生田智子は生前の岡田は話した最後のアイドルとなる |
4月8日5時20分頃 | タクシーで成城の峰岸徹の自宅の前まで行く。自宅の外から婚約者の気配を感じてしまう? |
4月8日5時55分頃 | 泣き腫らした顔で成城からタクシーに乗り東京駅付近で降りる。実家に帰ろうとした? |
4月8日10時 | 自宅で峰岸の名を含む置き書きをしてガス自殺未遂。病院に搬送され4針を縫い精神安定剤を投与される。刑事が来るなど大ごとになる。軽傷なので入院せず帰宅。 |
4月8日12時頃 | 本人の希望で事務所に向かう。専務が目を離した隙に屋上から転落。 |
死去後 | 峰岸徹が会見を開き交際の事実を否定。岡田有希子からの好意は自覚していた。 |














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