
生前は凄まじいカリスマ性を誇っていた尾崎豊さん。
尾崎豊さんはブランディングの一環に、私生活に纏わる情報やオフショットを控えるというものがありました。
若い頃に繁美さんと結婚し、晩年には第一子の長男が誕生していましたが、尾崎豊さんの恋愛や結婚生活の詳細は謎でした。
しかし、尾崎豊さんの死後、これまで謎のベールに包まれていた奥さんとの出会いや結婚生活、子供が生まれた後の様子などが明らかにされています。
今日は、尾崎豊さんが結婚した繁美さんとの出会い、結婚までのことについて書いてみたいと思います。
尾崎豊と嫁・繁美の出会いから結婚までの時系列一覧。
1986年5月12日 | 20歳の頃に当時18歳の繁美さんと出会う |
1986年5月後半〜 | 尾崎豊がアメリカ・ニューヨークに渡る。現地で恋人を作る。数ヶ月ごとに帰国し友人として繁美と遊ぶ。※薬物使用の前触れあり |
1987年 | 尾崎がニューヨークから帰国。現地の恋人と別れる |
1987年5月頃 | 繁美さんが尾崎豊の下目黒の自宅に通うようになる。尾崎は友人らの間で薬物使用の悪評が流れ距離を置かれる。 |
1987年7月頃 | お互いに異性関係を整理し半同棲生活をスタート |
1987年8月 | 尾崎が実家の両親に繁美さんを紹介する |
1987年9月 | 胃潰瘍で倒れツアー中止。繁美に1週間連絡せず。実際は胃潰瘍ではなく薬物関係。入院中に繁美さんの為に「CANDY」を作曲 |
1987年12月22日 | 覚醒剤取締法違反で逮捕。手紙で繁美さんにプロポーズするもOKはもらえず |
1988年2月22日 | 釈放。この際にバレンタインデーに繁美さんにもらったセーターを着用 |
1988年3月 | 繁美さんに68万8千円のダイヤの婚約指輪を買う。両親の前で婚約宣言し繁美さんの指にはめて見せるも、正式な入籍まで至らず。 |
1988年5月12日 | 入籍届けを提出し正式に夫婦となる。時刻2時55分は”2人でゴーゴー”の語呂合わせ |
尾崎豊と繁美の出会いは活動休止中。アメリカに渡る前の激励会に彼女が参加しサインを渡す
尾崎豊さんと嫁となる繁美さんと出会ったのは、1986年5月12日、六本木のレストラン『イタリアントマト・ファースト』で行われた食事会でした。
この年、尾崎豊さんはスランプに陥っており、活動休止中で渡米を決めていました。
尾崎豊さんがニューヨークに渡る手前、青山学院高校時代の友人(ドロップアウターズのメンバー)が中心となり毎晩のように尾崎さん激励会を実施していました。
その激励会に参加したメンバーの1人が、当時18歳だった繁美さんでした。
繁美さんは製薬会社に勤める父と、小さな会社で経理を勤める共働きの夫婦の元に生まれ、下には2人妹がいる三姉妹の長女です。
小さな頃から美少女で、劇団にスカウトされ小学生にして銀行のポスターなどに登場。
14歳の頃に東大生が審査するアイドルオーディションで賞を取り、芸能事務所に所属。
学生時代に彼氏から”女優か自分かを選べ”と言われ彼氏を選び、その後の仕事はモデルのみ。
尾崎さんと出会った当時の繁美さんは18歳でありながらも港区で広い交友関係を持つ(今でいう港区系女子の予備軍)タイプの女性でした。
出会う少し前に両親が離婚しボロいアパートで家族4人で住んでおり、交際後に尾崎さんが挨拶に訪問した際には、ボロボロすぎて笑われたなど、決して裕福な家庭で育ったわけではないようです。
名前 | 繁美(しげみ) |
生年月日 | 1968年 |
出身地 | 東京都 |
繁美さんは尾崎さんらの食事会に誘われた際、洋楽派だったことから関心は低く、どちらかというと可愛い子に片っ端から声を掛けるという悪評を聞いていたそう。
友人らから「あの尾崎豊が目の前で歌ってくれるんだよ。NYに行く前に彼の歌を聴ける最後のチャンスだからおいでよ」と推されたことで快諾し参加。
しかし、食事会の当日は3時間も待たせた挙句に姿を見せず、さらに日を改めての食事会にも再び3時間も遅刻するという振る舞いに、繁美さんは内心、
「ちょっと有名人だからって、こんなに人を待たせるなんて、何様のつもりかしら」
と憤っていたそう。
最初の約束をバックれ3時間遅刻で悪印象も繁美さんの方から一目惚れ。尾崎もカラオケで熱唱したり猛アプローチ
最初の約束をバックれ、日を改めての食事会でも3時間の遅刻。
あまりにも不誠実な尾崎さんに呆れ、繁美さんは帰ろうとするも、友人らに「今夜は絶対に来るから」と引き止められたそう。
そして、タクシーがお店の外に到着し、白いジャケットを着て降りてきた尾崎さんに繁美さんはあまりのカッコよさに一目惚れ。
来店した尾崎さんは友人たちに悪びれもなく挨拶しながら、奥にいた繁美さんを発見すると、すぐに彼女の元に向かい、
「君 可愛いね。僕の電話番号教えるから君の番号も教えてよ。あと名前も。なんて呼べばいいの?」
と、いきなり連絡先の交換を迫られたそう。
繁美さんは尾崎さんのイケメンぶりにドキドキしていたそうですが、それと同時に3時間も遅刻しておいて無神経な振る舞いにカチンときて、
「約束は10時よね。3時間も遅れてきて、ごめんなさいのひと言もないの?」
とお説教。
尾崎さんは「ごめんね」と謝り、その後にカラオケABCで「お前のために歌う」と持ち歌を惜しみなく披露。
店内をジャンプ、汗を流して疾走、お酒を友人に吹きかけるなど、ライブ同然の熱唱に繁美さんの機嫌も治ったそう。
何度も連絡先を聞いてくる尾崎さんですが当時の繁美さんには束縛する彼氏がおり、送別会にも「もう寝るね」と嘘をついて来ていたほどで、何度も拒否。
尾崎さんは簡単に乗ってこない繁美さんにますます興味を持ち、その他に参加してた女性メンバー(すでに関係があった女性もいた)そっちのけで繁美さんを誘い続けました。
最初は嘘の電話番号(アデランス)を教える。実家の電話番号と"TRY YOU BEST”のメッセージとサインを渡す
尾崎豊さんを魅力に感じていた一方でいきなりの連絡先の交換を拒んでいた繁美さん。
尾崎さんは構わずに「君のためなら薔薇も食べれる」と目の前で食べて見せたり、「俺と夜明けのコーヒー飲まない?」とアプローチを続けました。
繁美さんは尾崎さんが通っていた青学には共通の友だちもおり、教えて良いと思い始めましたが、
「翌日N.Y.に行く人に番号を教えたら絶対に待ってしまう」
「何人もいる女の1人になりたくない」
という思いから躊躇。
それはお高く止まっているのではなく、尾崎さんの魅力にしっかりとハマっているからこそ湧き出た感情でした。
そこで、繁美さんはアデランスの番号を教え、尾崎さんは「覚えやすいな」と疑いすぐに公衆電話から電話し気付き、「アデランスの番号を教えられたのは初めてだ」と怒ったそう。
頑なに「今日会ったばかりの人に、電話番号は教えられない」と交換を拒む繁美さんに、尾崎さんは理解を示し、
「ビザの関係で3ヵ月に1度は日本に帰ってくるし、おまえとはいい友だちになれそうな気がするから友達になってよ」
とこれまでと違って、比較的に誠実な対応をされ、ついに本当の電話番号を口にしました。
尾崎さんは繁美さんの電話番号を一生懸命に紙に書いたそう。
そして、自分が持っていたカラオケ店のリクエストカードに実家の電話番号と“Try your Best”のメッセージとサインを書いて、「無くすなよ」と渡しました。
実家の番号を書いたのは、尾崎さんなりの繁美さんへの誠意だったと思われます。
帰宅後も尾崎豊のことが頭を離れず最後のお店(レッドシューズ)に電話。諦めかけた後に電話が来てデート
繁美さんは翌朝からモデルの仕事がありましたが、数店舗はしごに付き合い、最後の店”レッドシューズ”では何度も帰ろうとするもバッグを奪われて引き止められました。
なんとか帰宅するも、尾崎さんのことが頭を離れず、帰りのタクシーではすでに怖がっていた”待つ時間”が始まっていたそう。
偶然にも仕事があった横浜に雨が降って中止になり、”また声が聞きたい”という一心でレッドシューズに連絡するも、お店の人に「5分前に帰られました」と言われ断念。
繁美さんは、「やはり縁がなかったか」と落ち込みながら眠りにつくも、なんとその日のお昼過ぎに早速電話が掛かってきたそう。
飛行機に乗り遅れ、渡米の日程がズレたということで、「時間ができたから、もう一度会いたい」と次の日に渋谷のモヤイ像前待ち合わせで初デートが決定。
尾崎豊と繁美の初デート。モアイ像で待ち合わせ→六本木プリンス。彼氏がいても関係ないアプローチ
出会ってすぐにデートに漕ぎ着けた2人ですが、なんと今度は繁美さんが20分遅刻してしまい平謝り。
その後、タクシーで尾崎さんが泊まっている六本木プリンスのカフェに行き、これから行くニューヨークでのやりたいことや夢や希望について語り、その流れで鉄板料理屋に吸い込まれて行ったそう。
この日の繁美さんは夜18時に彼氏の友達に自分の女の友達を紹介するという約束があり、尾崎さんとは昼までしかいれない予定でした。
尾崎さんも承知でしたが「君はビールだけ飲んでれば良い」と言いながら、メニューのほとんどを注文し、どんどん繁美さんの口に食べ物を放り込んだそう。
そのお店は有名なデザイナーが設計し店内の雰囲気は抜群、その上に美味しいご飯と王子様のような尾崎豊という条件に、繁美さんは彼氏との約束を2時間遅らせることに。
流石に店を出ないとマズいという時間に、わざとニンニクを丸ごと1つ注文し、「これを食べたら行っていいよ」と無茶振り。
繁美さんは尾崎さんの無茶振りに負けじとニンニクを1つ食べきり、彼氏の約束に向かおうとしますが、今度は「送っていく」と言い、最終的には一緒にタクシーに乗って付いてきてしまったそう。
彼氏と友達に挨拶するという尾崎さんを、繁美さんは必死に止め、尾崎さんは「じゃあ今日の11時にもう一回会って」とポケットに泊まってるホテルのカードキーを突っ込んだのです。
繁美さんは彼氏達と会っている間も尾崎さんのことばかり考え、11時に間に合うように仮病を使って帰り、タクシーに乗って尾崎さんの元に向かいました。
11時前にロビーに着くと、後ろから「今度は間に合ったようだね」と尾崎さんが声をかけ、「目を瞑って」と言われ、手に繁美さんの誕生石のアクアマリンの指輪を渡されたそうです。
サイズを聞かずにサプライズした為、はめてみるとブカブカでしたが、「明日、俺が買った店に行って、絶対に左手の薬指に合うサイズに直してもらえよ。約束だからな」「お店の人には可愛い子がサイズ直しに来るからと言ってあるから」と。
困惑する繁美さんに尾崎さんは
「俺さ、今まで見たことがない光を放つ原石を見つけた」
「それ、お前のことだから」
と想像しえないキザなセリフを言い放ったそうです。
ただ、その後に指輪のプレゼントは他の女の子にもやっている常套手段で、繁美さん以外の子にはもっと高価な指輪を買ってあげてたようです。
ニューヨークに渡った後の尾崎豊と繁美。お互いに恋人がいて帰国後も複数の彼女
1986年に出会った尾崎豊さんと繁美さん。
尾崎豊さんはニューヨークに渡った後も連絡をくれましたが、繁美さんは彼氏と続いており、尾崎さんも現地に恋人がいました。
帰国するたびに友人として会っていましたが、帰国するたびに尾崎さんの明るい魅力は薄れ、顔や腕に自傷した傷が多くありました。
当時の尾崎豊さんはレコード会社や事務所との関係が悪く孤独感を感じ、ミッドダウンの豪華なホテルかサービスアパートで暮らすと言いながらも、実際はダウンタウンの危険なエリアで生活し、悪い遊びを覚えてしまったようでした。
連絡先を交換した1986年の末頃には、尾崎豊さんからの連絡は途切れてしまったそう。
次に連絡があったのは出会った1年前の1987年5月で、「今から会えるかな。迎えに行くよ」と繁美さんを誘いました。
この数ヶ月前に尾崎さんは帰国しており、ニューヨークの恋人とは別れ、繁美さんもそれを知っていました。
独身時代の尾崎豊の女関係。下目黒のマンションには女の服やメイク道具、歯ブラシ。ピンポンの度に繁美は隠れる
繁美さんは連絡先を交換して1年後の1987年5月に「家で飲もうよ」と誘われ自宅を訪問。
独身時代の尾崎さんの自宅は下目黒の住宅街にある白いマンションで暮らしていました。
部屋に入ると、玄関が靴で埋め尽くされ、整理整頓はできてなかったよう。
リビングのテーブルには、恋人との写真が無造作に置かれ、床には引き裂かれた女性宛の手紙が散らばり、クローゼットには女の服、洗面台にはピンクの歯ブラシ、女の影を隠す気もない感じでした。
繁美さんが一番気になったのは、部屋中に錠剤のパッケージが転がっていたことで、当時にすでに尾崎さんは荒んでいたようでした。
再会後は「毎日会いたい」と、ほぼ毎日会うようになりましたが、テーブルには恋人からの手紙を開きっぱで置くなど、他の女性の名残が強く残る部屋に繁美さんは居心地の悪さを感じていました。
時より、夜中に女性が訪れピンポンを押すと、その度に尾崎さんは「しーっ」と言って隠れて居留守を使ったとか。
尾崎豊と繁美が交際するまで。お互いに異性関係を断ち合鍵を作って同棲も薬物使用が発覚
帰国後の尾崎豊さんと繁美さんは頻繁に会う仲でありましたが、お互いに恋人がいることは暗黙の了解でした。
尾崎さんは自宅デートを好みましたが、繁美さんは女性が訪問しては居留守を使わないといけない状況が嫌になり、「隠れるのは嫌だから、外で会おうよ」と提案。
すると尾崎さんは繁美さんに、
「俺は身辺整理するから。繁美も身ぎれいになってね」
とお互いに異性関係を綺麗にしようと言い、その後は女性からの電話には出なくなり、引っ越して合鍵を渡してくれ、宣言通りに繁美さん1人に絞りました。
この頃の尾崎さんは友人らの間で「ニューヨークに行って薬物を覚えて人が変わった」と悪評が流れ交友関係が狭まり、繁美さんにも自分との仲を口外してないで欲しいとお願い。
遊び場にしていた渋谷には行かなくなり、食事も繁美さんの手作りか近所のお店で済ませ、麻布十番のスタジオと自宅をタクシーで往復する毎日。
その一方、繁美さんは毎朝、ピアノとともに聞こえてくる尾崎さんの歌声で目覚める生活に、心から幸せを感じていました。
ちなみに尾崎さんが繁美さんを信用したきっかけは、車で彼女の自宅まで届けた際、ボロいアパート住みにも関わらず、素直に「ここ!」と言ったことです。
尾崎さんは以前から港区で出会った女性を自宅で送り届けることが多く、大抵の女性は豪邸の前で「ここが家」と言って降り、その後の別の家に帰るという見栄っ張りが多かったそう。
「女はみんな嘘つき」というのが口癖だったほどに尾崎さんは女性を信用していませんでしたが、繁美さんが出会って間もない時期に裕福ではない暮らしぶりを素直に伝えたことで、彼の信用を勝ち取ったとされます。
初めて尾崎豊の生ライブを観て圧倒される。同じ時期に薬物の使用を勘繰る
繁美さんは当時ディスコブームだったこともあり、普段は洋楽ばかり聴いており、尾崎さんのことは代表曲をちょっと知ってる程度でした。
初めてライブを観たのは1987年7月『TREES LINING A STREET』の横須賀公演で、繁美さんは妹と一緒に観に行きました。
繁美さんはライブでの尾崎さんに圧倒され、”尾崎豊”への尊敬の念が強くなり、”ロックスターと過ごしている”という意識が強くなりました。
ツアー中のある晩、酔っていた尾崎さんは繁美さんに「お前と結婚するかも」と呟き、その後の東京公演の際に繁美さんを実家に連れて行き、両親に紹介しました。
この時期から結婚の意識が芽生え、ツアーの最中には大磯や箱根に小旅行に出かけるなど、とても幸せな時間を過ごしました。
ただ、ツアーの途中から1週間以上も連絡が途絶え、ツアーの残りの日程は中止。
繁美さんが尾崎さんの状況を知ったのは数日後の新聞で、理由は”胃潰瘍で入院”とのことでした。
繁美さんは”胃潰瘍なら電話できたはずでは?”と、友人らの間で広まる薬物疑惑と合わせて嫌な予感を勘ぐり、退院後に尾崎さんが処方された薬の袋を見て、薬物関係が理由と判明。
尾崎豊は入院中に繁美の為に楽曲「CANDY」を制作
入院中、一度も連絡のなかった尾崎豊さんですが、繁美さんは連絡のない間、「自分のせいでは?」と自分を責めて泣いたりしていたそうです。
久しぶりの電話口で尾崎さんは入院中は毎日のように繁美さんのことを想って「CANDY」という曲を作ったと、電話越しにアコギで弾き語りしてくれたそう。
CANDYの由来は繁美さんが漫画の主人公で、「キャンディ・キャンディみたいに何があってもめげない強さが繁美にそっくりだから」ということです。
連絡のない間の不安が吹き飛び、嬉しさに涙。
しかし、話し方が呂律が回っておらず、久々に会ってみると顔が浮腫んでおり、不安はさらに大きくなりました。
交際してすぐに尾崎が薬物で逮捕。留置所で愛を育む。釈放時には繁美さん手編みのセーターを着用
入院から帰ってきて再び同棲生活に戻りますが、この頃から尾崎豊さんの行動が明らかにおかしくなっていました。
「買い物に行く」と出掛けたまま6時間も帰ってこなかったり、夜中に目覚めると姿がなかったり、1日中なにも喋らない日があったり。
次第に、空中に手を泳がせて何かを掴もうとしたり、何かを豆粒くらいに小さく畳んでからカプセルらしきものに詰め飲み込むなど幻覚の症状。
繁美さんは尾崎さんが隠してる薬物の場所を探すも見つからず、尾行するも何もわからず、本人に問いただしても「何もしてない」としか答えてくれず。
とにかく、薬物が手に入る都心から離れるべきだと東京から離れ、日光、京都、彦根を旅行。
自然に触れ合うことで以前のような表情が増え、「もう繁美を悲しませるようなことしないから」と約束し東京に戻るも、再び薬物を使用。
繁美さんが何度も泣きながら「辞めて」と訴えるも、当時19歳だった彼女は無力で何もできませんでした。
”もう一度病院に入った方が良い”と考え尾崎さんの母親に相談、睡眠薬を混ぜて飲ませ病院に行き、看護師に連れて行かれる際に「しげみ!しげみ!」と叫ぶ姿に涙が出たそう。
病院で面会する際、身内でないと面会ができないということで、繁美さんは「婚約者」と書き、その時は、’一生尾崎さんに寄り添い支える覚悟を決めましたが、その反面、途方もない不安を感じたそう。
入院して良くなれば良いと我慢しましたが、その後に尾崎さんは病院を脱走して実家に逃亡。
そして、実家の兄の通報により、1987年12月22日の朝方に麻薬取締法違反で逮捕されました。
尾崎豊の拘置所からの手紙でプロポーズも「縁があったら」と保留
尾崎さんが逮捕された後、恋人だった繁美さんは警察に12時間拘束され事情聴取。
面会で再会した尾崎さんは紐で腰をつながれて手錠をはめられた姿でしたが、柔らかい表情で刑事も「彼はもう大丈夫。すごく反省してるから、きっともうやらないよ」と。
繁美さんから見ても以前の明るい姿に戻った印象でした。
バレンタインに手作りのクッキーを持っていこうとするも、食べ物は拘置所内の売店で買ったものではないでダメとのことで、2週間かけて手編みのセーターをプレゼント。
この頃に、繁美さんは「Dear My Life Shigemi」という書き出しの手紙の中で、尾崎さんからプロポーズをされました。
その手紙には、彼が見たという夢の話が書いてあったそう。
お遍路さんのように、私たちふたりが白い光の中で、日本の各地をずっと歩いている夢。彼は3歳くらいの子どもの姿で、お母さんのように彼の手を引く私が「はじめのい〜っぽ!」と言いながら、子どもの彼を励ましていたと綴られていました。
『僕には夢がある。その夢へのはじめの第一歩を君と歩き出したい』と結婚を意味する言葉が綴られていたそう。
しかし、繁美さんは尾崎さんのことが大好きなものの、執行猶予中で仕事がこれからどうなるかも分からず、結婚となれば社会的な責任や重圧もあり、純粋で傷つきやすい気質上、結婚はもう少し先でもいいのではないかと考えました。
繁美さんは、
「あと3年くらいはフィアンセという関係を続けて、それでも2人の気持ちが変わらず、本当に縁があったら入籍しよう」
と伝え、尾崎さんも「うん」と納得しました。
拘置所から出てくるときは繁美さんにバレンタインに貰った手編みのセーターを着ていました。
釈放後は尾崎の実家で素朴な生活。繁美20歳の誕生日にダイヤの婚約指輪。無事に入籍!
留置所の手紙の中で繁美さんにプロポーズした尾崎豊さんですが、当時はすぐにOKはもらえませんでした。
尾崎さんの出所後は埼玉県朝霞市にある彼の実家の2階で一緒に住み始めました。
実家では尾崎さん母が近所に畑を借りており、そこで育てた野菜を取りに行ってご飯を作ったりと、のんびりと穏やかな時間を過ごせたそう。
結婚を保留にされていた尾崎さんは、日常の中で繁美さんに「これやったら結婚してくれる?」と口癖のように言うなど、結婚へ猛プッシュ。
1988年3月12日の繁美さんの20歳の誕生日のとき、出所祝いも兼ねてパーティを企画、飯田橋の高層ビルに入る夜景が綺麗な中華料理のレストランを予約。
レストランに向かう途中、ATMに立ち寄り100万円の現金を引き出し池袋西武の宝飾売場に繁美さんを連れて行き、
「婚約指輪を買ってあげる、どれがいい?」
と68万8千円の西武デザインのダイヤモンドの婚約指輪を買いました。
指輪を買う際、尾崎さんがアメリカから帰国後に金欠だったこと、逮捕で給料が減額され30万ちょっとしかもらってなかったこともあって躊躇。
また、以前に靖国神社で”これ婚約指輪””本物は今度ね”と冗談で買ってもらった300円のオモチャの指輪に繁美さんは満足していたこともあって遠慮。
それでも尾崎さんは意思が固く、むしろバブル当時の”婚約指輪は給料3ヶ月分”という通念を気にして、
「今は給料の3ヶ月分にも満たないけど、次は指からはみ出るくらいのを買ってやる」
と、自分のポテンシャルより安い指輪であったことを気にしていたようです。
そうして向かったレストランには尾崎さんの両親と繁美さんの妹がいて、みんなの前でメンデルスゾーンの『結婚行進曲』を口ずさみ、婚約指輪の箱を開き、繁美さんの左手の薬指にはめ、「僕たち、婚約しました!」と宣言。
嬉しそうにする尾崎さんでしたが、父は「それは繁美さんの親御さんにご挨拶してからだろ。順序が逆だ!」と猛ツッコミしていたそうです。
1988年5月12日2時55分に文京区の出張所で婚姻届けを提出
尾崎さんからダイヤの婚約指輪をもらった繁美さん。
本来は幸せの絶頂のはずですが、あくまで2人は執行猶予中の歌手と無力な20才の女性。
自分たちを客観的に見ており、すぐに結婚への決心がつかなかったそうです。
日頃からやきもち焼きだった尾崎さんですが、この頃は嫉妬深さがさらにエスカレート。
繁美さんの行動を束縛し、ちょっと無断でスーパーに行っただけで不機嫌になったり、自分の母に繁美さんを見張らせたり病的でした。
入籍まで流れたきっかけは、2人でお酒を飲みながらテレビを見ていた際、いつものように嫉妬深いことを言う尾崎さんに対して繁美さんが、
「じゃあ、結婚したらもうやきもちを焼かない?」
というと、
「うん。絶対に焼かない。繁美が俺と結婚してくれるなら安心できるし、約束する。結婚しよう!!」
と喜び、「ふたりとも成人だし、印鑑さえ持って行けば結婚できる! 明日役所に行こう!」と言い出したこと。
繁美さんは尾崎さんがお酒に酔っていたこともあり、すぐに忘れると思っていましたが、翌朝に印鑑の場所を聞いて探し、母に「今日、俺たち、結婚することにしたんだ」と本気。
入籍には戸籍謄本も必要で、取り寄せるには一週間ほどかかると知ると、本籍にある高山の役所に即行こうとなり、一緒に旅行がてら新幹線に乗って急遽向かうことに。
戸籍謄本を取得するとすぐに東京に戻り、繁美さんの実家で尾崎さんのお父さんと繁美さんの母を保証人にして、婚姻届けに捺印。
尾崎さんが「おめでたいことなんだから、大安がいい」とのことで、直近の大安吉日の5月12日に本駒込に当時あった文京区の出張所に婚姻届けを提出。
時間は2時55分で、尾崎さんは「ふたりでゴーゴー」という語呂合わせにちなんだ時間だとして決めました。
こうして、ようやく2人は夫婦になりました。