荻野目慶子さんといえば、芸能界の歴史の中で最も”魔性”と呼ばれた女優であります。
現在は結婚して幸せに暮らしていますが、過去に2人の映画監督との壮絶な不倫関係が有名で、現在でも伝説として語り継がれています。
今日は荻野目慶子さんの若い頃の不倫スキャンダルについて整理してみたいと思います。
荻野目慶子と河合義隆監督の出会いと不倫。別れ話後に彼女の自宅で自死
荻野目慶子さんは1979年に14歳で舞台「奇跡の人」でデビュー。
デビュー当初から“天才少女”と絶賛され順調にキャリアを重ね、1983年の「南極物語」で高校生にして国民的人気を誇りました。
1985年の20歳の頃に出演したドラマ「幕末青春グラフィティ・福沢諭吉」で映画監督の河合義隆さんに出逢います。

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河合義隆監督は荻野目慶子さんにマンツーマン指導、彼女の才能に惚れ込みました。
河合監督は妻子持ちでありましたが、荻野目さんとの関係は親密になっていき、やがて不倫関係に。
河合義隆監督は荻野目さんの東京都世田谷区南烏山のマンションに通い不倫を続け、そのことは奥さんにもバレてしまいました。
奥さんと泥沼の三角関係になっていた荻野目さん、しばしば修羅場が繰り返されるようになっていきました。
1990年頃には順調なキャリアと将来のため、不倫関係を打ち切ることを考え始めます。
1990年4月に世田谷区の荻野目慶子のマンションで自死
ついに荻野目さんが河合監督に不倫関係の解消を申し出ると、1990年4月30日に彼女の自宅で自死。

発見当時、荻野目さんは地方ロケから帰宅したばかり。
河合監督は荻野目さんの自宅の2LDKの台所とリビングルームの間のドアキッチンとリビングの間のドアにマフラーをかけて首を吊っていたそう。
事件後、警察による事情聴取で荻野目さんは、別れ話を持ち出し、それに対し河合さんが「別れるぐらいなら死にたい」と発言していたと説明。
この亡くなった当時の状況は荻野目慶子さんの2002年の著書「女優の夜」でも綴られています。

なんと、当時の河合監督は映画の興行が失敗しスランプに陥っており、荻野目さんの自宅に転がり込んでヒモ状態になっていたそう。
荻野目さんに生活を支えてもらっている状況での別れ話だったのです。
つまり、荻野目さんへの気持ちだけでなく、自分の生活や将来に対する絶望も自殺の原因の1つだったと考えられます。
淡々とインタビューに答える。その後に河合監督撮影の写真集を出版
自分を巡って1人の男性が自死してしまった荻野目さん。
当時25歳だったということで、平常心は失われたと思われました。
しかし、事件後の会見で荻野目さんは淡々と状況説明。
このドライな姿勢から、当時から”魔性の女”と呼ばれるようになったのです。
さらに発売が予定されていた写真集「SURRENDER」を予定通りに出版。

この「SURRENDER」には、亡き河合監督が荻野目さんを撮影した写真も含まれており、仕事と私情を切り分ける姿勢にも世間は驚きました。
写真集はヒットを記録し、荻野目さんの評価はますます高まる結果となりました。
その一方で、あまりにもセンセーショナルな事件を起こしてしまったということで、しばらくは女優を休業せざるおえませんでした。
懲りずに再び映画監督・深作欣二と不倫。発癌も肉体関係の為にホルモン剤を拒否し死去
河合監督の死去から2年後の1992年、荻野目さんは映画「いつかギラギラする日」に出演。
この映画「いつかギラギラする日」の撮影中、なんと深作欣二監督が荻野目さんに熱烈なアプローチ。
深作監督は1964年に「狼と豚と人間」で出会った女優・中原早苗さんと1965年に結婚。

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1972年には長男(映画監督・深作健太)が誕生、妻子持ちの身でありました。
実は深作監督が荻野目さんにアプローチしたのには長男・健太さんが関係しています。
当時、深作監督の長男・健太さんは中学生の反抗期、たまたまレンタルビデオ屋で父の「仁義なき戦い」を発見し借りて感動。
長男・健太さんは映画が好きになりたくさんの映画を漁り、その中で荻野目慶子さんの素晴らしさに気づき、父に「荻野目慶子はすごい女優だから起用するべきだ」と勧めたのです。
そして、深作さんと荻野目さんの親交が始まり、息子と3人で食事を行く仲に。

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その流れの中で、映画の撮影中に襲われるような形で不倫関係が始まってしまったのです。
ちなみに深作監督は妻と結婚後、1982年にも映画「道頓堀川」の撮影中から松坂慶子さんと不倫関係になるという前科がありました。

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2人揃って同じパターンの前科持ち同士で不倫が始まり、世間の格好のネタとなりました。
前立腺癌を発症するも荻野目の為に抗がん剤を拒否
荻野目さんは深作監督の熱心な誘いに押され、再び不倫をすることとなります。
最初は強引な形で始まった交際ですが、荻野目さんも深作監督の才能に惚れ込みし、しっかりと相思相愛な両想いとなりました。
1992年から始まった不倫は長期に及び、深作さんの奥さんは離婚せず、不倫関係は長期に及びました。
2人の不倫で有名なのが1996年に深作監督が前立腺癌を発病した際のエピソード。
なんと、深作監督は前立腺癌の治療に必要な抗がん剤治療が男性機能が停止することから、
「抗がん剤を使えば男性機能が弱くなる。僕は命よりもキミとの性を選んだ」
と、荻野目さんとの行為の為に抗がん剤を拒否。
東映の日下部プロデューサーも見舞いの際に深作監督から「切ってしまった方が楽なんだろうけど、切ったら女を抱けなくなっちゃんだよ」と笑って話していたと振り返っています。
深作監督は入院中も荻野目慶子さんを病室に呼び、熱い夜を過ごされたそうです。
荻野目慶子の暴露本を巡って家族が対立。深作の死に目に会えず
深作監督はしばらくは発癌したことを世間に非公表。
2000年からバトルロワイヤルシリーズの制作を手掛けるなど、体に鞭を打って仕事を続行しました。

2002年にバトル・ロワイアルの続編の制作発表の際に、ようやく癌を公表。
公表に至った内情は、荻野目慶子さんが暴露本「女優の夜」を出すと知って、暴露される前に自分で公表しようとのことでした。
長男の健太さんは「親父の女関係の話なんてどうでも良かった。でも親父の癌のことを愛人から発表されるのだけは絶対に許せなかった」と、出版社に原稿を見せるように問い合わせるなどしたそうです。
健太さんに思い通りに無事に暴露本より前に癌を公表できたということです。
2002年に出版された荻野目さんの暴露本「女優の夜」には、予想通りに深作監督に強引に襲われて不倫に至ったことや、発癌と抗がん剤治療を受けない理由まで書かれていました。
暴露本には自死した河合監督のことまで書かれており、「遺族の気持ちを考えていない」との批判の声が相次ぎました。
奇しくも暴露本「女優の夜」の発売から数ヶ月後の2003年1月12日に深作監督は72歳で死去しました。

亡くなる時、荻野目慶子さんも立ち会いを希望しましたが、当然のように奥さんの中原早苗さんが拒否。
河合監督だけでなく、この深作監督との件もあるからこそ、荻野目さんが現在までに”魔性の女”と呼ばれているのです。
荻野目慶子はアッコちゃんから川添象郎を奪う?
荻野目慶子さんの不倫でもう1人有名なのが音楽プロデューサーの川添象郎氏です。

この川添象郎さんという人物は、過去に何度も結婚しては不倫・離婚を繰り返したことで知られるスキャンダルの多い人物。
90年代には女優・風吹ジュンさんと既婚状態で子供も誕生していたにも関わらず、美人女子大生の小出明子さんと不倫。

この小出明子さんという方は人気小説「アッコちゃんの時代」のモデルになった、バブル期を象徴する”港区系女子”の元祖的存在。
川添さんは妻子の待つ自宅には帰らず、小出明子さんとホテルオークラで暮らし、1992年までには小出明子さんの妊娠をきっかけ風吹ジュンさんとは離婚。
小出明子さんは川添さんとの子供を産み再婚、名前も「川添明子」としました。
大学生にして有名女優から男を奪ったということで、彼女もまた荻野目さんと同じく”魔性の女”との異名を誇りました。
荻野目慶子との不倫で川添象郎とアッコちゃんは別居
現在でも川添明子さんは日本を代表する「魔性の女」として知られていますが、そんな彼女の夫・川添象郎と荻野目さんは不倫関係になっていたのです。
不倫後の2000年までに川添さんとアッコちゃんは別居することとなります。※2006年頃まで別居し離婚
荻野目さんと川添さんの不倫時期は不明ですが、深作監督と時期が被っていた可能性があります。
つまりは、深作監督と川添さんで不倫の掛け持ちをしていた可能性があるということですね。
深作さんは映画界の巨匠で、川添さんも音楽界のフィクサー的な存在、そんな大物2人をまとめて虜にしていたと考えると、それは相当にすごいことです。
芸能界では藤あや子さんや上原多香子さんが”魔性の女”として語り継がれていますが、内容でいえば荻野目慶子さんに勝る女性はいないと思われます。


















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