伝説のロックスター・尾崎豊さんは1992年4月25日に26歳の若さで亡くなりました。
死因は「肺水腫」でした。
尾崎豊さんが肺水腫に至るまでに、「薬物を使用していたのでは?」「外部から暴力を受けたのでは?」など様々な考察があります。
精神的に追い詰められていた背景から、身内関係、宗教や仕事関係、裏社会関係、親近者などを中心に陰謀説などもありました。
今日は、尾崎豊さんが亡くなった際のことなど、わかっている事を整理してみたいと思います。
また、尾崎豊さんが生前から大事そうに抱えていたバッグに入れていた遺書の内容と意味についても触れて見たいと思います。
尾崎豊が死去するまでの時系列。他殺や自殺の陰謀論が出てしまった理由
尾崎豊さんの死因は、覚醒剤の過剰摂取によって引き起こされた「肺水腫」です。
1987年に薬物関係で逮捕されたこともあり、当初から覚醒剤関係を疑う声が強くありました。

しかし、当時は遺体から大量の覚醒剤が検出されていたことが公式に公開されていなかった為、長く”謎の死”として扱われました。
その結果、身内による他殺や自殺などの陰謀論が多く登場しました。
実際に尾崎豊さんの父と兄とファンによって再捜査の署名運動が始まり、最終的には10万人の署名が集まっています。
↓覚醒剤を覚えた時期から死去するまでの流れを時系列で書くと以下のようになります。
1986年5月 | 尾崎豊がアメリカ・ニューヨークに渡り現地で薬物を覚える。渡米前夜の激励会で妻となる繁美と出会う |
1986年 | 帰国。”アメリカで薬物を覚えた”と噂が広まり交友関係が狭まる。繁美と交際&同棲を始める。 |
1987年9月 | 尾崎豊がツアー中に倒れて残りの公演中止。表向きは胃潰瘍と報道されたが本当は薬物関係 |
1987年12月 | 尾崎豊が覚醒剤で逮捕。※逮捕前に薬物関連で入院していたが実家に脱走し、家族に通報される。 |
1988年5月 | 尾崎豊と繁美が結婚 |
1988年6月 | テレビ初出演&「太陽の破片」リリースで復帰。出演までに夫婦で空手のカタなどでダイエットしコンディションを整える |
1988年9月 | 東京ドームライブで5万人を動員し完全復活。当日までに妻を過剰に束縛し直近では「中止する」「借金を負って可哀想だな」と発言。ライブ前に薬物を使用。 |
1988年12月 | 長男の妊娠発覚。妊娠後も情趣不安定になり繁美を過剰に束縛 |
1989年7月24日 | 長男誕生。子煩悩な父になるが繁美の優先順位が子供に移ったことを悲観。事務所との関係が悪く精神薬や酒の量が増える。家にジュエリーや高額な飲み代の領収書が届き女の影。 |
1990年10月 | 尾崎豊と妻・繁美が別居 |
1990年12月 | 尾崎豊の弁護士から離婚の話が持ち上がる。個人事務所「アイソトープ」設立。 |
1991年2月 | 尾崎豊の小説「普通の愛」発売。書籍の中で繁美氏を連想さす悪妻が描かれる。 |
1991年3月 | 週刊誌に斉藤由貴との不倫が報じられる。尾崎豊が妻子と住んでいた自宅からピアノなどの私物を持ち出す。妻・繁美も弁護士を立てて離婚調停。 |
1991年10月 | 妻子の元に戻る。不倫相手の斉藤由貴と別れる。 |
1991年12月 | 尾崎豊の母親が急死 |
1992年4月5日 | 夫婦揃って死のうと誘うも繁美は”母親だから”と拒否。 |
1992年4月17日 | キラー・カーンのお店に訪問しカレーとキープボトルのウイスキーを飲む |
1992年4月24日19時 | 川添象郎のパーティに夫人とマネージャーと出席。尾崎豊は夫人とは別々にマネージャーと会場に向かう。尾崎は会場に到着すると軽くお酒を飲む |
21時頃 | 会場を出てタクシーに乗り、寄ったグリーンホテルのラウンジで学生時代の友人と再会し、誘われてバーに向かう。夫人とはここで別れる |
22時頃 | 到着した芝浦にある“O BER”で尾崎豊は日本酒を浴びるように飲み店員に暴言を吐く。 |
1992年4月25日2時頃 | お店を出てタクシーに乗り、通り過ぎた牛丼屋に寄れと運転手に要求するも「転回禁止だから出来ない」と言われ激昂し座席を蹴る。「お前も金か」と1万円札をばら撒く。交番に連れて行かれ謝罪し、警察に敬礼して笑顔で立ち去る。 |
5時10分頃 | 足立区千住の民家の庭先で全裸傷だらけで失神してる姿で発見され通報。ブロックに頭を打ちつけたり空手のカタをしたり1人で暴れている姿が目撃されていた。 |
5時45分 | 墨田区の白鬚橋病院に運ばれ”深酒”とのみ診察。本人の希望で一時帰宅。この時には意識があり名前が言えて歩けた |
7時頃 | 自宅マンションで夫人、兄、マネージャーが看病し見守る。自宅で暴れたり眠ったりを繰り返す。 |
11時頃 | 息をしておらず妻・繁美が119番。千駄木の日本医大病院の救命センターに収容。蘇生措置が施される。 |
12時6分 | 死去。当時は死因の詳細は明かされず。血中のアルコール濃度が異常に高かったことから飲酒関連だと思われた。 |
1992年4月30日 | 文京区の護国寺前で葬儀。雨の中約4万人のファンが駆けつける |
1994年 | 司法解剖時に尾崎の体内から覚醒剤が検出されていたことが明るみになる |
1999年 | 蘇生措置の写真が公開される。酷い傷とアザだらけの体に陰謀論が再熱 |
2011年 | 尾崎豊が身内に残した2通の遺書が週刊誌によって公開される |
嫁・繁美や家族らの陰謀説の理由。妻子はバッシングの影響で渡米
死後、すぐに嫁・繁美さんの陰謀説を唱える声が出ました。
その理由に関しては、亡くなる晩年の尾崎さんの悪妻を描いた小説と不倫騒動のイメージが先行していたせいです。
尾崎豊さんが1991年2月に発売した小説「普通の愛」では、作品の中に旦那をコケにする女性が登場します。
この女性は繁美さんに対する不満を過大させて書いたとされ、発売後には繁美さんは尾崎さんに「なんでこんなことしたの?」と問い、尾崎さんが「フィクションだよ」と否定するやり取りもありました。
繁美さんは後に、自分のカッコ悪い部分を知っている繁美さんの存在が嫌になり、屈折して書くことで自分のダメな部分を一掃させたかったのでは?と考察しています。
そして、小説が出て1ヶ月後には女優の斉藤由貴さんとの不倫報道。

不倫報道後に弁護士を立てて離婚調停に進むなど、夫婦仲はめちゃくちゃでした。
それでも不倫報道から半年後の10月までには妻子の存在が一番だと気づき、尾崎さん自ら繁美さんに謝罪し「やり直そう」と、再び同居が始まっています。
亡くなる20日前には、繁美さんと一緒に死のうと、お酒と睡眠薬を飲むなどしており、最後まで一緒にいたいと思えるほど愛し合っていたことが伺えます。
しかし、当時は小説「普通の愛」での悪妻ぶりと憎むべき不倫のインパクトが強く、死後に「繁美さんの陰謀では?」と勘繰る人が続出したのです。
メディアでも繁美さんによる陰謀説を唱えたテレビ局が登場(裁判になり勝訴し和解)するなど、油に火を注ぎました。
陰謀論の内容は主に、”お金目当てで嫁やマネージャーが手を組んで…”、”結婚生活や不倫に対する恨みつらみで…”などで、一般人である繁美さんの名前が堂々と出ていました。
尾崎さんの父と兄が中心になって再捜査の署名活動が行われ、10万人にも及ぶ署名が集まりましたが、検死の本書を持っている繁美さんは署名しておらず、「やっぱり怪しい」と言われました。
結果、繁美さんは長くバッシングに耐え続け、2年後の息子が5歳になった頃に妻子でアメリカ・ボストンに移住しています。
ちなみに、その後に死因が覚醒剤だと分かると、手を合わせに実家に訪問した際に父の方から「あの時はごめんなさい」と謝られたそうです。
音楽関係者との軋轢。事務所から移籍し独立。お金目当ての人間を過剰に警戒
他殺説は妻関連だけでなく、音楽関係者のパターンもありました。
晩年の尾崎豊さんは事務所との折り合いが悪く、移籍や契約解除を繰り返し、独立に至るなどトラブルが多くありました。
トラブルの詳細は、活動内容、グッズ収入のピンハネ、割に合わない固定給料への不満などです。
繁美さんの証言から、執行猶予中の月給は定額30万だったこと、復活後の東京ドーム公演前には精神を乱し大荒れしていたことなどが分かっています。
晩年の尾崎豊さんは人間不信に陥っており、スタジオで暴れたり、ちょっとしたことでも人を疑うなどナーバスになっていました。
1999年には某週刊誌から蘇生措置に撮られた、全身に傷やアザだらけの写真が出ました。
”他人にやられないと無理な傷だ”と、誰かから暴力を受けた背景を想像する人が続出。(実際には鑑識では”他者による傷ではない”とされた)
そのことから、音楽関係者との軋轢から何かトラブルがおき、関係者の誰かに…という陰謀論が強く押されたのです。
また、死後にある週刊誌から裏組織の方が「自分が尾崎をやった」というような内容の記事が出たことがあり、それを信じる人がいたことからも長く他殺説が信じられました。
自殺説は今でも信じてる人が多い?
他殺説の他にも自殺説を推す人もいます。(今でもいます)
それは単純に、尾崎さん本人が子供誕生以降に2度の自殺未遂をしたことを語っていたこと、亡くなる20日に繁美さんと自殺未遂のようなことをしていたことなどが理由です。
遺書にも「ずっと死にたいと思っていた」との記述もあり、ある関係者は「尾崎は自分の死期が近いことを分かっていた」と証言しています。
体がボロボロなのを知っていて覚醒剤を大量に使用したとのことなので、自死との解釈もある意味正解だと思われます。
尾崎豊の2つ遺書全文。両親宛と嫁・繁美宛。内容と意味
尾崎豊さんが残した遺書は、当初は妻の繁美さんは辛すぎて開けることができなかったそうです。
遺書の存在は知られるも、内容は長く非公開。
死後20年後に「文藝春秋」が2通の遺書全文を公開。
週刊誌が遺書を公開した際、妻の繁美さんは当時取材していた信頼できる記者に唯一遺書を見せていたことと、当時「息子の裕哉が父の死を理解するまで遺書は公表しないでほしい」と約束していたことを思い出したそう。
頼まれていた。そして17年後の
遺書は妻と両親宛の「遺言」と題されたもの、妻子宛の「お手紙」と題されたもの2通ありました。
メディアやネットで頻繁に取り上げられるのは1通目の妻と両親宛ての「ずっと死にたいと思っていました」「さよなら 私は夢を見ます」の文章です。
↓[1通目]「遺言 妻 両父母へ」↓
先立つ不幸をお許し下さい。
前日からずっと死にたいと思っていました。
死ぬ前に誰かに何故死を選んだのか話そうと思ったのですが、
そんなことが出来るくらいなら死を選んだりしません。「ただ死という状況がまたたくまに訪れるのです」
「生とは死を知り、生を葬ることである。生に善意はあれど、死を感ずるところ、ただ失意のごとく死に向かい、今ひとり人の群棲を歩き、痛み、ただ雨の如し。思い浮かぶまだ浅き月日をも、人の言う己を語り尽くすには足らず。最果てはすべてを許したいけれど、その余りいまなお生きる我に痛みの雨ぞ降りて祈り」あなたの歌が聞こえてきます。
まだ、若かった頃のあなたの声が、
あなたのぬくもりが蘇ります。さようなら 私は夢見ます。
妻子のへの遺書を「お手紙」と題した意味。ラブレターとしての解釈
2通ともに”妻へ”向けた遺書でありましたが、2通目は「手紙」と題し子供へのメッセージを含み、内容の雰囲気も1通目とはガラリと違います。
↓[2通目]「尾崎繁美と裕哉へお手紙」↓
尾崎繁美となりたもうた女神よ
いまの悲しみに真のあなたの美しき華麗な優しさを覚えます。
やがて、この暮らしを、そしてこの暮らしの真意に基づき、
あなたの優しさを鏡として、そしてあなたを求愛し、
あなたを幸せに導きます。私たちの愛に育まれる天使裕哉を、天命のもとに敬愛します。
あなたは天命たる天女、そして天命たる女神、
子はその道のもとに生まれたる天使。
やがて世の幸を待つ人々にとっての使徒となるものたちが、
私たちのために幸働く日が来るでしょう。
その日のためにあなたをこよなく愛します。
あなたを生涯守ります。
あなたに世界、そしてこの世の全ての幸せを私なる尾崎豊より捧げます。
天の女神、そして天の使徒を守る天の子、そして幸を待つ人々のために。繁美、あなたは本当に女神なのですよ。
裕哉、君は間違いなく天使なのですよ。
私はただあなたを愛する名の神でありつづける。
皆の言うことをよく聞いて幸せになってください。
死んでも尚、妻子のことを愛し、守り続けていきたいという強い想いが尾崎さんなりの表現で綴られています。
繁美さんは20年後に「文藝春秋」の報道を通じて遺書の存在を思い出し、そして自身のへの取材を機に読み返し、改めて遺書に書かれていた内容の意味を考えさせられたそうです。
嫁の繁美さんは尾崎さんと出会って結婚するまで、節目で何度も尾崎さんから愛の手紙をもらっており、”手紙”と題されていることからも、自分と息子に向けた“究極のラストラブレター”だったと解釈。
死別して長い歳月が流れた今も、最後の手紙から”この上ない至高の愛”を感じることができるようです。





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