RADWIMPSといえば2010年代に国民的なロックバンドとして人気を博しましたが、実は人気が爆発する目前にオリジナルメンバーの1人が活動休止。
そのメンバーとはドラムとして活躍されていた山口智史さんです。
山口さんは古くからのRADWIMPSファンの間では馴染みの潜在的なメンバーですが、バンドが紅白初出場を決めた頃には活動を離れており、世間一般的には山口智史さんの知名度は低いです。
今日は山口智史さんがどのようなメンバーであるのか、活動休止の原因になった病気「ミュージシャンズ・ジストニア」について、現場復帰するまでに開発した「葉山アイス」などについて書いてみたいと思います。
山口智史はRADWIMPSの人気ドラマー。デビュー当初からバンドを支える
山口智史さんは1985年3月20日に神奈川県横浜市に生まれました。
家族は両親と4兄弟で、兄弟は本人以外の全員が女性であります。

RADWIMPSの中では1学年上の年上メンバーですが、偉ぶることなく、良いお兄さんとしてメンバーから愛されています。
| 名前 | 山口智史(さとし) |
| 出身地 | 神奈川県横浜市 |
| 生年月日 | 1985年3月20日 |
| 血液型 | A型 |
| 身長 | 168cm |
| 最終学歴 | 洗足学園音楽大学ジャズ科中退 |
山口さんは中学2年生で、部活仲間から誘われバンドを結成し「X JAPAN」のコピーバンドでドラムを担当していました。
高校時代(RADWIMPS加入前)にはメタルバンド「をかし」でドラムを担当。
RADWIMPSも出場したYOKOHAMA HIGHSCHOOL MUSIC FESTIVAL 2002には山口さんは「をかし」のメンバーとして同じ大会に出場しました。

山口さんは曰く、
「17歳の夏に出会ってからずっと、RADWIMPSは俺の人生において最強で最高、そして最愛のロックバンドです。」
と語っており、大会で出会ったRADWIMPSのことがずっと大好きであったと語っています。
高校卒業後は洗足学園音楽大学ジャズ科に進学し、RADWIMPSが再始動した2004年3月にメンバーチェンジを行い、山口さんはベースの武田祐介とほぼ同時期に加入となりました。
専門学校を中退しRADWIMPSのメジャーデビュー&ブレイクに貢献
洗足学園音楽大学ジャズ科は中退し、その後はRADWIMPSの活動に専念し、加入から2年後の2006年にメジャーデビュー。
ニコニコと笑顔でドラムを叩く姿がファンに人気で、RADWIMPSの中でも女性ファンの多いメンバーでありました。
同じ洗足学園音楽大学ジャズ科出身のベースの武田祐介さんとは仲が良く、デビューしたばかりの頃はホテルで相部屋になることも多かったそうです。
デビューから3年後の2009年2月1日には23歳にしてメンバー最速で結婚。
嫁の女性・冴希(さき)さんはベースの武田さんの幼馴染ということで、身近な一般人の女性と長年の恋を実らせての結婚であったことが分かっています。
RADWIMPSとしてのキャリアを順調に伸ばしていきましたが、持病のフォーカル・ジストニアという神経症が悪化したため、2015年9月23日から無期限休養に入ることとなります。
山口智史が患っている病気はミュージシャンに多い神経症
2015年9月23日から無期限休養に入っている山口智史さん。

当初、本人は脱退を希望したそうですが、メンバーの引き止めにより休養という形になりました。
山口さんが患った病気は、どれだけ音楽活動に影響を与えるのか?
活動休止後、山口さんはRADWIMPSを「世界で一番好きなバンド」と評し、それほどにもバンドを愛してる人が脱退を本気で考えるほどの病気であることが伺えます。
山口さんは2009年頃から”フォーカル・ジストニア”という神経症を発症させていました。

フォーカル・ジストニアとは、局所的に本人の意思と関係なく体が動いてしまう神経症です。(ミュージシャン・ジストニアとも呼ばれます)
楽器の演奏者のように体の一部を酷使したり、また演奏による心理的なストレスがかかったりする方が患うことが多い病気です。
この病気によって山口さんは、右足の筋肉に勝手に力が入ってコントロールができなくなる症状が出て、ペダルを踏み込みバスドラムを鳴らす操作が思うようにできなってしまったのです。
発症した2009年から2015年は、思うようにドラムが叩けない症状に悩まされ続けていたのです。

山口さん本人は、この症状が出た時点でドラマーとしての人生は終わったと悲観し、当初は脱退を希望するほどまでに絶望したということです。
RADWIMPSのメンバーやファンは山口智史の復活を信じて励まし続ける
2015年に症状が悪化し活動休止となった山口智史さん。
活動休止を発表した当初からRADWIMPSの野田洋次郎さん、武田さん、桑原さんは山口さんの復帰を信じてる言葉を発信し続けてました。

その一方で、山口さんが休養した翌年2016年にRADWIMPSは映画「君の名は」の音楽を担当したことで紅白歌合戦出場、連日大手メディアで取り上げられるなど全盛期を迎えました。

活動から外れていた山口さんは世間一般的に知られることはなく、「実は休養中のドラムがいる」というトリビア的な扱いがされ、RADWIMPS=3人という印象が一般的となりました。
山口さん抜きにRADのストーリーが進んでいくことに古参ファンは寂しさを覚え、ネット上では山口さんの具体的な休養期間、復帰時期、近況・容態を気に掛ける投稿が続き、1日でも早い復帰を望まれました。
休養中の山口智史は妻子と共に神奈川・葉山に移住。棚田で農作業し葉山アイスを完成させ広める
活動休止中もファンらから復帰を望まれ続けている山口智史さん。
RADWIMPSが新海誠作品を皮切りにキャリアアップを続ける一方で、山口さんの復帰の目処は立たず、ファンらは「このまま現場復帰は叶わず脱退扱いになるのではないか?」と心配しました。
そんなファンの心境を感じ取ってか、RADWIMPSメンバーはコンスタントに山口さんの存在を意識したアクションを見せ、その度にファンを喜ばせました。
休養中の山口さんは2009年に結婚した奥さんとの間には3人の子供が誕生し、休養後すぐに神奈川県葉山に移住。
葉山町上山口にある「にほんの里100選」にも選ばれた美しい景観の棚田で、夫婦で農作業に励んでいたそうです。

山口夫妻は「マイナビ農業」で、”神奈川県・葉山町の棚田でできた米からこだわりのアイスを作っている30代夫妻”として取り上げられたこともあります。
なんとも、棚田の米は大型の機械が入れづらい上に人員の確保が難しく、少量の米しか収穫することができず、この状況を打破するために山口さんは米を発酵させて甘酒アイスを製造することを考え、料理上手な奥さんが試作品を作り、構想1年で「葉山アイス」を完成させたとのこと。
葉山アイスが完成されるまでに、小ロットでもアイスを製造してくれた工場、取り扱いをしてくれた飲食店など地元民の協力もあったそうです。

今ではアイスの売り上げの一部を棚田に還元する仕組みを作り、町のふるさと納税の返礼品にも選ばれるほどの名品となっています。
夫婦で「BEAT ICE(ビートアイス)」と自身のアイスブランドを名付け、その存在は全国の棚田農家に広がっているようです。
バンド復帰は温厚?2025年にソロツアー&RADWIMPSのオフショットに登場
山口智史さんは奥さんと葉山アイスの活動をしながらも、2021年頃からテクノロジーを駆使したドラムの研究を始めました。
ドラマーの練習法と身体不調に関する論文の発表の勤しむなど、少しづつ現場復帰に向けて前進していました。
しかし、山口さんの復帰を待たずして2024年10月14日にギターの桑原彰さんが脱退。

オリジナルメンバーが顔を揃えてのRADWIMPS復活は難しくなりました。
山口さんは桑原彰さんが脱退した際、
桑のギターが好き。 何度となく、そのきれいで繊細な音色に驚かされてきたよ。
あの時、渋谷スクランブル交差点で、俺を見つけてくれてありがとう。
またいつかきっと、一緒に音で遊ぼうね。
智史
と投稿し、3万以上のイイネを貰うなど大反響でした。
喧嘩別れで野田洋次郎さんの別れの挨拶が事務的で冷酷だと言われていただけに、山口さんの存在の温かさが際立つ一幕でありました。
2025年にソロツアーを開催しRADWIMPSのツアーファイナルにサプライズ出演
テクノロジーを駆使したドラム演奏を研究し続けた山口智史さん。
2025年8月に自身初のソロツアー「The Past Can Be Changed – Talk and VXD live performance-」を開催。

10年ぶりにステージに復帰し、ファンの前に立つことができました。
ソロライブは好評で、このまま1日も早いRADWIMPSへの復帰が期待されました。
そして、ソロライブを開催した同年の年末12月28日、RADWIMPSが開催中の20周年記念ツアーのファイナルのアンコールに山口智史さんが登場。
デビュー曲「25個目の染色体」を演奏し、ついにRADWIMPSの現場復帰が実現されました。

会場にいた多くのファンが号泣し、野田洋次郎さんも終演後にSNSに「ロックバンドをやってきてよかった」と投稿し、山口さんの復帰を喜びました。
山口さんも自身のXで「愛してるよ、RADWIMPS」と綴り、ファンらから「おかえりなさい」「感動した」「胸熱すぎる」と反響が寄せられました。


















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